このページでは、聖母文庫の「アシジの聖フランシスコ小品集」より抜粋して掲載させて頂きます。
「自分の兄弟が病気で、報いる事ができない時に、健康で報いる事が出来る時と同じように、その兄弟を愛するしもべは幸いです。」
「遠く離れていても、一緒にいる時にように兄弟を愛し、尊敬し、愛徳があれば、その人の面前では言えないようなことを、その背後でも決して言わないしもべは、幸いです。」
「主が御示しになる善いものを『天に積み』(マタ6・20参照)、報いの時の為に人々に示すことを望まないしもべは、幸いです。
何故なら、いと高き御方自身が、御望みの人々に御自分の業(わざ)を御示しになるからです。
主の秘密を、『心に』しまっておくしもべは、幸いです。(ルカ2・19、51参照」
「神が、他人を用いて語ったり、行ったりされる善について誇れないように、自分を用いて語ったり、行ったりされる善について誇らない『しもべは幸いです』(マタ24・46)。
自分を神である主に捧げようと望まず、むしろ隣人から受けたいと望む人は罪を犯しています。」
「人々から賞賛され、賞揚された時に、愚直で、軽んずべき者とみなされた時と同じように、自分を優れたものと考えないしもべは幸いです。
なぜなら、人々は神の御前にあるだけの者であって、それ以上の何ものでもないからです。
他の人々によって高い地位に上げられると、自分の意思によって降りる事を望まない修道者は不幸です。
これに反して、自分の意思によって高い地位に上げられるような事は無く、いつも他の人々の足下に留まっていたいと望む
『しもべは幸い』です(マタ24・46)。
「目下たちの間にいる時、主人たちの間にいるかのように謙遜である、と認められるしもべは幸いです。
常に矯正の鞭の下に留まっているしもべは、幸いです。
自分のあらゆる過ちに対して、内的には痛悔によって、外的には告白と償いの業によって、速やかに自分を懲らしめる人は、
『忠実で賢いしもべ』です。(マタ24・45)