聖ジャンヌ・ダルク童貞

「イエズス・キリストと公教会について、私はただそれが唯一の御事であり、
物事を複雑にすべきではないと知っております。」

 

1319年フランス王シャルル四世の逝去によってカペー朝が断絶し、そのいとこにあたるヴァロア家のフィリップがあとを継いだ。
ところが英王エドワード三世は、シャルル四世のおいにあたるという理由から、フランス王の王位相続権を主張して
一歩も譲らなかった。
これにイギリスの対仏感情の悪化とブランドルを経済対立も絡み、英仏百年戦争が始まった。

その頃、フランス国内では王族間の内紛が起こり、プルゴーニュ党とアルマニャック党に分かれ、前者は英国と共同し、


後者はあくまでフランスの正統王朝、ヴァロア家のシャルル六世の太子を守って優勢な英軍に抵抗した。
この必死の抵抗もむなしく首都パリは陥落し、1428年、仏軍の最後の堅固な城オルレアンが包囲され、
ヴァロア王朝の運命は風前のともしびとなった。
このとき天来の救い主のように現われたのが、純潔なる童貞ジャンヌ・ダルクである。
聖女は祖国愛に燃えながら自ら陣頭に立ち、オルレアン城を解放してシャルル七世の戴 冠式を挙行した。

聖女は1412年1月6日、フランスの東北部ドンレミの寒村に生まれた。
草深い田舎の、しかも貧しい農家の娘の事とて学校には行けなかったが、敬虔な両親に見習い、篤い信仰を身につけて、
毎日家事の手伝いや羊の番をしていた。
この少女もたびたび祖国の危機を聞いて、小さき心を痛めながらフランスを救って下さいと天主に祈っていた。

1424年、聖女が十二歳の時、聖祭が閉祭して御聖堂を出ようとした途端、天からの御声を聞いた。
「ジャンヌ・ダルクよ。敵の手からフランスを救え」と。
聖女は驚いて「私にどうしてそんなことが出来ましょうか。」と問うと、
「天に在します御父が、汝を助けられるであろう。」と答えた。
それは大天使聖ミカエルの御声であった。
その上聖マルガリタ童貞と聖カタリナ童貞もしばしば御出現になり、ジャンヌを「天主の娘」と呼んで勇気づけた。

ジャンヌはあまりの不思議に四年の間悩み、貞潔の願を立ててよく祈り、度々聖体を拝領した。
十六歳の時についに聖女は「御旨のままに」と天主に誓い、城主のボードリクールに「フランス王を救いに行きますから、
私に兵士を伴わせて下さい。」と願い出た。

初めは相手にされなかったが、ジャンヌはこれにひるまず熱心に運動を続けて、ついに村人や城主を説得した。
かくしてジャンヌは騎兵の男装で馬にまたがり、数人の兵士を伴い、シノンにいる王太子のもとへと向かった。
整列した兵士らの中に変装して隠れていた王太子を一目で見分け、これに天から告げられし自らの使命を語った。

王太子も以前から噂の流れていた預言、すなわち「フランスは純潔なる童貞女によって救われる」という事を聞いていたし、
今またジャンヌの誠意ある話に心を動かされたが、念のために数人の大学教授にジャンヌの審査を依頼した。

「あなたは天から使命を受けたというが、全能の天主に兵士はいらないではないか。」と問われて、
ジャンヌは「勝利は天主の与え給うものですけれども、戦いは兵士の為すべき事です。」と答えたという。

一か月間の厳密な調査の結果、ジャンヌの使命が認められ、1429年にジャンヌは白い鎧兜を身につけて、右手に剣を、
左手にイエズスとリア御名をしるした白絹の軍旗をもって、さっそうと白馬にまたがり、槍の精鋭小隊を率いてオルレアンに進撃した。
この軍旗は、今日なおオルレアン市に保存されているが、救い主が雲に乗り、二位の天使が白ゆりを下げ、イエズス、
マリアがしるされている。

途中で将兵に告白・聖体の秘蹟を受けさせてから「フランスの興廃この一戦にあり」と言わんばかりに総攻撃をかけ、
破竹の勢いで次々と敵(英軍)の包囲網を突破して数日のうちにオルレアン城を解放した。
この奇跡的な戦勝にフランス全軍の士気は大いにあがり、国民はこぞって神に感謝し、領土回復の希望に燃えたった。
ジャンヌは、この喜びをゆっくりかみしめるいとまもなく、同年七月、幾多の困難を経て王太子をランスに導き、これをシャルル七世として正式にフランスの王位に即位させたのである。

感動に胸震わせながら、ジャンヌは王の前に出て涙ながらに言った。
「天主の御言いつけは今果たされました。私の仕事もこれで終わりました。これからは静かな故郷に帰りたいと思っています。」
「ジャンヌ、汝は私の命、国の力だ。いつまでも私のそばにいて、私とフランスを助けてくれ。」
「でも私は女でございます。女の生きる道は他にあると思いますので…。」

ジャンヌは乞われるままに軍中に留まり、戦い続けた。
翌年、首都パリを奪回しようとしていたところを、プルゴーニュ軍に捕らえられ、英軍に売り渡された。
のちオルレアン城に護送された後、1431年5月30日、英軍の買収した裁判官によりルーアンで宗教裁判にかけられた。
この裁判には、最初からシャルル七世の戴冠式を魔女の手になるものとして、これを無効にしようとする政治的意図が強かった。
四か月に渡る暴力裁判の末、結局なんら確証もなく、ジャンヌを「神の名を汚す魔法使いの女」と決めつけ、彼女に火刑を宣告した。

ジャンヌは半年ぶりに告解を為し、最後の聖体を拝領した。
ジャンヌは身に長い喪服をまとい、胸には唯一の希望である十字架をかけ、全てを天主の御心に委ねつつ、
十九歳とは思えぬ落ち着いた態度で刑場に向かった。

群衆はジャンヌのこうごうしい姿を見て涙ぐんだ。
やがて高く積まれた刑場の薪に火がつけられ、燃えさかる炎の中にジャンヌは、「イエスズ、マリア」の御名を呼びつつ息絶えた。

その25年後の1456年に教皇カリスト三世は、この宗教裁判のやり直しを命じられ、無罪判決をもってジャンヌの名誉を回復し、
1905年教皇ピオ5世によって列福、1920年に教皇ベネディクト15世はジャンヌを聖女の列に加えられた。

祝日5月30日。フランス、囚人の保護者。

(教会の聖人たち より)

「聖ジャンヌ・ダルク、キリストの王船の使徒よ、我らの為に祈り給え。」
(300日の免償。1927年1月11日 使徒書簡)

 

<祈願>

「聖ジャンヌ・ダルク、小さき羊飼いにして、後にフランス王を助くために来りし女と呼ばれ、オレルアンを英国より解放するに
雄々しく兵士を導き給いし御者よ、我イエズス・キリストと、御身を先立ちて聖ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリタによりて
整え給いし天の御父に、御身の天主の使命を成就せんと試み給いし時の熱誠と忠誠とによりてとりなし給わんことを願い奉る。

御身は裁判において、『汝は恩寵の状態にありしや』と問われしに、『我かくあらざらば、天主我をそれに据えたり。
我かくあらば、天主我をこれに保ち給わん。』と宣まいき。

聖ジャンヌ・ダルク、フランスの保護者よ、わがために祈り給え。」

 

<聖ジャンヌ・ダルクのチャプレット>

このチャプレットは十字架、もしくは聖ジャンヌ・ダルクのメダイと二つの小珠、環状部分は一連が一つの大珠と五つの小珠からなる、
三連によって構成されています。
もし専用のチャプレットを御持ちでなければ、一般のロザリオを数を調整されながら用いられて構わないと思います。

 

まず始めに十字架(もしくはメダイ)で次の祈りを唱えます。

「主よ、わが助けに御意を傾け給え。主よ、わが助けに急ぎ給え。」 

 

次の大珠で「栄唱」を唱え、更に次の大珠で「主祷文」と次の呼祷を唱えます。

燃ゆる杭(くい)の生贄として犠牲となりし聖ジャンヌ・ダルクよ、わが全生涯の間、我に属せし全ての為すべき
信心深き修練によりて、我もまた生贄とならんことを祈り求め給え。」

五つの各小珠で「天使祝詞」を唱えます。

 

次の大珠でまた「主祷文」と次の呼祷を唱えます。

「聖ジャンヌ・ダルクよ、我御身と共に、ただ謙遜と慈悲、償いと、天の御国に入るを得るに要する全徳の行いのうちに喜びを見出すを望まん。」

五つの各小珠で「天使祝詞」を唱えます。

 

次の大珠でまた「主祷文」と次の祈祷を唱えます。

「聖ジャンヌ・ダルクよ、わが全てのあがきにおいて我と共に在し給え。
戦闘にありて絶えず側らに剣を携え、予期せざる夜襲に対し注意を怠らざるイスラエルの強者の如くに、我が常に戦いの備えを為さんことを。
諸天使と諸聖人保護と共に、我にもまた御身のものを与え給え。
我に努めさせんと鼓舞し給え。
わが光、助け、我らの長なるイエズスの導きとなり給え。
わが地上の任務を成し遂ぐるにおいては、御身の如くにイエズス、イエズス、イエズスと繰り返しつつ息絶えんことを。
聖ジャンヌ・ダルク、我らのために祈り給え。」

五つの各小珠で「天使祝詞」を唱えます。

 

このチャプレットのしめくくりに次の祈りを唱えます。

「聖ジャンヌ・ダルク、我らのために祈り給え。我らをキリストの御約束にかなわしめ給え。」

 

<祈願U>

「ああ主よ、御身は驚くべき仕方において、聖女の祖国と信仰を守らせんがために聖ジャンヌ・ダルクを昇らせ給いたれば、
聖女の祈祷によりて、御身の公教会を尽きざる喜びの場となし給え。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system