福者ドン・ボスコ伝

昭和五年五月発行(現在は列聖されています)

 

<夢は現実となる>

神学校における数年間は、矢のように過ぎ去った。
その間に彼の性癖や性急さは、神学校内部の空気に触れて、幾分か角が取れた。
又、時には学校内の規則を守るために、彼は全く己を棄てたこともあった。

彼は自分よりも多く苦業をなし、自分よりも熱心であり、かつ自分よりも多く謙遜の徳を有する者に倣って、
この時分の彼に特有な心理状態より生ずる困難に打ち勝った。

彼はいつもこの困難に打ち勝ったが、然しこの困難は又、絶えず彼を襲った。
なぜかと云うと、これは彼が自分のいと小さく卑しき人間なることと、司祭の職の偉大にして重要、かつ聖なることとを思い合わすより生ずる所の
困難であるからである。

司祭がイエズス・キリストの代理者であり、地上におけるその事業の後継者であり、他のキリストとして、その使命とその権能とを完全に
受け継いでいる者であるということを、彼は長い間、慎重に考慮したに違いない。

聖会を葡萄の樹に例えれば、イエズス・キリストはその幹であり、司祭はその枝であって、聖(とうと)き実を生ぜしむべき樹液は
これらの枝を通って各部分に配布されるのである。

キリストは御自分について「我は世の光である」と仰せられたが、御自分について仰せられたことは又、司祭たちについても仰せられた。
即ち「汝等は世の光である」と仰せられたのである。

 

ところで、若し司祭たるイエズス・キリストの代理者であり、地上におけるその事業の後継者であるならば、司祭たるものは、
己の中にキリスト自身を持っていなければならぬ。
常にイエズス・キリストの司祭的精神を保持していなければならぬ。
万事においてキリストの考えに従い、その行動に倣わなければならんのである。

かくの如くにして始めて、神の御心にかなう善き司祭となり得るのであり、ただかくの如くしてのみ、人々の霊魂に多くの実を結ばしめることが
出来るのである。

 

彼はこう考え、又少し躊躇した。
この時、彼の心には修道士になろうという考え、特にアッシジの聖フランシスコの弟子になろうという考えが、再び戻って来たらしく思われる。

然し、ついには決心し、一八四一年六月五日トリーノ市において、普通の司祭となった。

 

トリーノ市の伝道司祭館(或は聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの家とも云う)における十日間の心霊修行中、彼は叙品式の荘厳なることと
司祭の位の聖(とうと)きこととを考えて、霊魂の準備をした。

この心霊修行の結果、彼はいくつかの厳格なる決心をしたが、これらの中のあるものは、
世の多くの青年が読んで司祭として神に召されることの貴きこと、幸福なることを味わうべきである。

 

一、重大なる用事、例えば病人の見舞いのような事がない限りは、決して散歩せぬこと。

二、少しの無駄もないように、時間を有効に使うこと。

三、霊魂を救うためには、常に又いかなる事においても、苦痛をこらえ、謙遜の行いをなすこと。

四、万事において、サレジオの聖フランシスコの愛徳と優しさに倣うこと。

五、健康に害なき限り、常に出された食品で満足すること。

六、水を割った葡萄酒を飲むこと。そうしてただ薬用としてのみ飲むこと。
即ち、健康に必要な時、又必要な分量だけを飲むこと。

七、仕事は霊魂の敵に対する強力な武器である。
だから、毎晩五時間以上は眠らないことにしよう。
一日中、殊に食事の後には、少しの休息もしないことにしよう。
ただし病気の場合には、いくらかの例外を設けることにしよう。

八、毎日いくらかの時間をさいて、黙想と霊的読書をなすこと。
一日の中に簡単な聖体訪問をするか、少なくとも聖体に対するお祈りをすること。
ミサ聖祭においては十五分間の準備をし、又十五分間の感謝をなすこと。

 

 

 

 

<不思議な天使祝詞の力>

「幼な子らの我に来るを容(ゆる)せ。」(マルコ十章十四節)

これは御主(おんあるじ)が、パレスティナの村々を回られながら、発せられた御言葉である。
之によって、御主はすべての人をして、幼き者をいつくしみ、保護するように望まれたのである。

而(しか)も、御主はこう云われただけでは満足せられず、子供達の無邪気な目の中に、御自分の御顔を映るのを見ながら、
つけ加えて次のように仰った。

「諸君がもし、子供の如くにならないならば、神の国に入る事は出来ないでしょう。
神の国は、実に子供の如き人のために備えられたものであります。」

何という、気持ちのいい優しい言葉だろう!
我らはドン・ボスコの次の物語を読むと、福音書の此の場面から受ける、同じような晴朗なる印象を受けるのである。
即ち彼は、「回想録」に、次の如く記している。

1841年12月8日、聖母の汚れなき御宿りの大祝日、私はミサを捧げるために、祭服を着けている所であった。

祭器室の係のヂュゼッペ・コモッティが、片隅に一人の少年を見つけて、御ミサ答えをするようにと云いつけた。

するとその少年は、「御ミサは出来ないんです。」と、非常に恥ずかしそうに答えた。

「そんな事を云わずに、御ミサ答えをしな!」

「でも出来ないんです。やったことがないんです。」

「何、やった事がないんだッて?そんなら、なぜ祭器室へ入って来たんだ?この大馬鹿野郎め!」

と、祭器室係は、真っ赤になって怒り出した。
そうして、はたきを取るが早いか、少年の頭と云わず、肩と云わず、滅茶苦茶にひッぱたいた。
少年はびッくりして、一目散に逃げ出した。

「どうしたんだ?」と、私は大声に尋ねた。
「どうしてそんなに殴るんだ?何か惡いことをしたのか?」

「御ミサ答えが出来ない癖に、祭器室へ入って来たんでさア。」

「それだけの事で殴るなんて良くないな。」

「然し、神父様には、あの小僧と別に関係はございませんでしょう。」

「いや、大いにある。あれは私の友達だ!すぐ呼び戻してくれないか。あの子供に話しがあるんだから。」

「おーい、小僧!小僧!」と呼びながら、彼は子供の後から追っかけて行った。
そうして、今度はぶたないからと安心させて、再び私の所へ連れ戻った。

子供はぶたれた痛さに、躯(からだ)を震わして泣いていた。

「もう御ミサは拝聴しましたか?」

「いいえ。」

「ぢやァ拝聴していらっしゃい。
それから後で、あなたに好い話しがあるから、待っていらっしゃい。ね?」

「ええ。」と彼は私に約束した。

私は、この哀れな少年の悲しみを和らげたい、祭器室の係りの人々に対して悪い印象を得たまま、帰らせたくないと、切に望んだのである。

 

ミサを終わり、感謝の祈を捧げて後、私は少年を聖堂内の一室に導き、笑いながら、もう打たれる心配はなからと安心させ、
それから色々と質問を始めた。

「あなたの名前は何と云うの?」

「バルトロメオ・ガレッリ。」

「何処で生まれたの?」

「アスティです。」

「お父さんはあるの?」

「いいえ、もう死んでしまいました。」

「お母さんは?」

「お母さんも死んでしまったんです。」

「あなたの年はいくつ?」

「十六です。」

「読み書きは出来ますか?」

「ちっとも出来ません。」

「御聖体はもう頂きましたか?」

「いいえ、まだです。」

「告解をした事はありますか?」

「小さい時にしました。」

「今、聖教の勉強に行っていますか?」

「行きたいと思っても、恥ずかしいと思って行かれないんです。
僕より小さい人が、聖教の事をよく知ってるのに、僕はこんなに大きくなっても、ちっとも知らないんだもの。」

「ぢやァ、あなただけ別に、私が教えてあげたら、勉強に来ますか?」

「ええ、喜んで来ます。」

「この部屋まで来ますか?」

「ええ、ぶたれさえしなければ。」

「安心しなさい、もう誰もあなたをいぢめはしないからね。あなたは今日から、私の友達だ。
あなたは、私と二人ッ切りで勉強するんですよ。外に誰も来ないからいいでしょう。何時から始めましょうかね?」

「いつからでも構いません。」

「ぢやァ、今晩からしましょうか。」

「ええ。」

「今すぐしましょうか?」

「ええ、今すぐでもいいんです。」

 

ドン・ボスコは、公教要理の説明を始める前に、この少年の魂に益を与え、之を救う御恵みを聖母より戴こうと思って、跪いて「天使祝詞」を一回
唱えた。

彼は、この時、自分が計画していた大事業が、今始まるのだという事を感じて、内心大いに満足を覚えた。

 

四五日前から彼は、どんな風に働いたならば、少年達の霊魂により以上の善をなし得るか、そのやり方を神様が自分に教えてくださるように、
心を鎮めて今までよりも、一層熱心に、かつ烈しく祈ったのであった。

その上彼は謙遜な心をもって、常時トリーノの大司教であった、モンシニョール・フランソーニを訪れ、霊魂の牧者として、また父としての賢明な
忠告を求めたのであった。

 

この聖(とうと)き大司教は、ドン・ボスコの火の如く熱烈なる言葉を聞き、彼が祈祷クラブの設立の為に、一身を捧げんとしている事を知るや、
直ちにこの事業に対して心からの賛成を表し、その認可を与えると同時に、司教掩祝を与えたのであった。

しかるに、ドン・ボスコの此の計画は、天主の御計らいにより、今や全く思いがけない機会において終に実現された。
即ち、彼はその最初の弟子、バルトロメオ・ガレッリ少年を見つけたのである。

 

極めて用心深いドン・ボスコは、この少年に三十分ばかり聖教の稽古をしてやった後、小さいメダイを一つ与え、この次の日曜日に
またいらっしゃいと優しく言って帰した。

これが後年、ドン・ボスコの弟子達によって、瞬く間に全世界に広まった、祈祷クラブの濫觴である。

 

これより四十年の後、永遠の生命に入ろうとしていたドン・ボスコは、自分の興した広大なる事業を顧みて、天より下った凡ての祝福の源は、
アッシジの聖フランシスコ聖堂の一室において、バルトロメオ・ガレッリ少年と共に、熱心と信頼とをもって唱えた天使祝詞であると語り、
若し自分の弟子達があくまでも謙遜の徳を守り、聖職にふさわしき行いを続けるならば、神は今後も相変わらず、我がサレジオ会をして、
偉大なる事業をなさしめ、益々世界中に発展せしめるであろうと、聖なる熱心に燃えながら、弟子達をいましめた。

 

今まで、幾度か自己の救霊を一層安全にせんがために、アッシジの聖フランシスコの光栄ある修道院に入ろうと熱心に望んだドン・ボスコは、
かくして此の聖人に捧げられた聖堂において、その事業を始めたのであった。

 

 

聖母の汚れなき御宿りの大祝日に次ぐ日曜日、即ち十二月十二日、バルトロメオ・ガレッリ少年は、約を守って、ドン・ボスコを訪れた。

蒔いたばかりの種はもう芽をふいて、すくすくと生長を始めたのである。
即ち、ガレッリは毎回きちんと来たばかりでなく、他の六人の少年を連れて来た。
その上、カファッソ師からも、二人の少年が、ドン・ボスコの許へ送られた。

 

その後は、日曜日毎に、新しい弟子が最初の九人に加わった。
その大部分は左官の少年で、当時トリーノの市街は著しく膨張しつつあったので、多くの左官屋が市中で働いていたのである。

この弟子の中には、カルロ・プッツェティもいた。
彼は、ミラノ州、カロンノ・ギリンゲッロの出身で、後にはドン・ボスコの下に工事監督となり、自分の兄弟、姉妹、甥姪等を彼の所へ導き、
それから死ぬまで極めて忠実な弟子であった。

 

ドン・ボスコは、これらの小さな友達と共に、その年の御誕生の大祝日を祝い、彼等の中の幾人かは、既に聖体を戴くことが出来た。

この時から彼は祝日ばかりでなく、普通の仕事日の中から、数時間と、学院の規則に規定してある散歩の時間を全部、少年達のために
捧げることにした。

又、彼等の中で最も良き性質を具え、最もよく学問の出来る者数人を選んで、特別の訓練を与え、仲間の少年達の間に秩序を保ったり、
みんなのために大きい声で宗教上の書物を読んだり、聖歌を歌ったり、することが出来るようにした。

これが、アッシジの聖フランシスコ聖堂の近くに設けられた、最初の祈祷クラブの礎であった。

 

素直で元気のいい少年達は、ドン・ボスコの恩を深く感謝して、父親に対する如くに、彼に懐(なつ)いて来た。
日曜の晩、ドン・ボスコと別れる時、彼等の最大の望みは、次の週のうちに、再び恩人の顔を見たいということであった。

ドン・ボスコの方でもまた、彼等の働いている店を訪れたり、病気の時は病院へ行き、学校を卒業すればそれを祝ったりして、出来る限り
彼等を満足せしめたので、すべての者から愛された。
で、彼等は道でドン・ボスコに会おうものなら、歌声をあげて喜ぶという風であった。

 

或日、ドン・ボスコは市役所の側で、小さい弟子の一人に出会った。
子供は買い物をして帰って来た所で、手には酢の一ぱい入ったコップだの、油の壜(びん)だのを持っていたが、ドン・ボスコの顔を見るや否や、
「ドン・ボスコ万歳!」と叫びながら踊り出した。

ドン・ボスコは笑いながら、「こうすることが出来る?」と云って、手を叩いて見せた。

子供は嬉しさの余り、我を忘れて壜(びん)を小脇に抱え、「ドン・ボスコ万歳!」と叫びながら、夢中で手を叩いた。

その瞬間、酢の入ったコップと、油の壜(びん)とは、地面に落ちて壊れてしまった。
子供はその物音を聞くと、ハッとしたが、それから家へ帰るとお母さんに叱られると云いながら、オイオイ泣き出した。

「泣かなくてもいいよ、すぐ直るから。さア、私と一緒においで。」

と、ドン・ボスコは優しい父親がするように、泣いている子供の手を取って、一軒の店へ連れて行き、かみさんに訳を話して、子供の無くしたものを
みんなやって下さいと頼んだ。

 

「さア、これですっかり元の通りになりましたよ。」
と、おかみさんは、此の若い神父の親切なのに感心しながら云ったが、「あなたはどなた様です?」と、付け加えて尋ねた。

「ドン・ボスコです……みんなでいくらになりますか?」

「二十二銭になりますけれども、なアに、お代はよろしゅうございます。」

 

この間も、ドン・ボスコは牢獄にある哀れな人々を訪問することを、決して止めなかった。

少年に対する彼の伝道事業が成功すると同時に、入獄者、殊に未成年の入獄者に対する感化事業も非常な成功を示した。

彼は、極めて感じ易い自分の心を抑えて、入獄者に近づき、全く兄弟に対するような愛情を以て之に接した。
否、彼は福音書にある、『我れ牢獄にありしに、汝等、我を見舞えり」という言葉を考えながら、兄弟以上の者に接するように感じたのである。
彼は、『回想録』に、次の如く記している。

 

『私は、人間の品位の重んずべきことや、正直な努力によって日々の糧を得るのが道理に叶ったことであって、決して盗みをしてはならぬという事を
彼等に云い聞かせた。

彼等は道徳上の掟、及び宗教上の掟を一度耳にするや否や、内心に一種の喜びを感じた。
然し、その喜びが如何にして生じたのか、彼等自らは了解することができなかった。

けれども、此の内面的の喜びを感じたために、彼等が善人に立ち返ろうとしたのは事実である。
二三の者は、刑務所にいる中から行いを改め、他の者も出獄の後は、眞人間になって、再び刑務所に引かれることがないようになった。』

 

青少年に対する深い愛を勤勉なる活動によって実現しつつあったドン・ボスコは、此の同じ年の終わり頃には、更に一層人を引きつけ、
且(か)つ、効果の多いもう一つの伝動方法を案出した。

 

彼は、オルガンやピアノも相当にやり、又二三の良い唱歌法を会得していたので、日曜日の集まりを一層愉快なものとするため、幼児(おさなご)
イエズスの賛美歌を作って、来るべき御誕生の大祝日に子供達に歌わせようとした。
そのために、彼自ら、聖フランシスコ聖堂の一室に於(お)いて歌詞を作り、同じく、彼自ら之に曲をつけた。

それから、二十人ばかりの少年に、根気よく唱い方を教え、一八四二年、聖ドミニコ聖堂に於いて、初めてこの歌を唱わせ、次にコンソラータ
(慰められたる聖母の意)の聖堂で唱わせた。

この時、ドン・ボスコは自身でオルガンを奏し、小さい合唱団を指揮したが、当時子供の唱う声を余り聞いたことがなかったトリーノの人達は、
大変喜んだ。

そうしてこの時以来、聖歌の練習は中絶せずに、ずっと継続されるようになった。
ドン・ボスコは最初の聖歌の後をうけて、いくつかの美しい賛美歌を少年達に教え、聖堂以外の所に於いても、之を唱わせた。

 

これらの歌は、大いに少年達の喜びと熱心とを増し、市民の賞賛を得た。
或日ドン・ボスコは、一隊の子供達を引き連れて、ピローネの聖母の聖堂へ参詣した。
(この聖堂はトリーノ市の郊外、ポー河の岸にある。)

子供達は三艘の舟に乗ってポー河を渡ったが、川の中程へ来た時に、讃美歌を歌いだした。
両岸にいた人々はこれを聞いて、始めは立ち止まって耳を傾けていたが、やがて余りの美しさに聞き惚れて、両岸の小道を歩きながら、
舟の後について来た。

その間に、偶然ここへ来合わせた幾人かの喇叭(ラッパ)手は、喇叭を取って、この極めて容易なモチーフに伴奏をしたが、これが非常に
いい効果を与えた。

聖母の聖堂に属する信者は、悉(ことごと)く家から飛び出して来て、少年達がボートから岸に上がろうとした時には、一千人近くの人々が
道に立って、若き歌手を迎えた。

 

これが、ドン・ボスコの養成した少年歌手の最初の大成功で、この後、あらゆる場所で無数の成功を勝ち得る前表であった。

若き人々の魂を捕え、静かに彼等を導いて、善をなさしめんために、ドン・ボスコは今や詩人となり、音楽家となったのである。

 

人の心を清め、且(か)つ貴(とうと)くするのが本来の使命である純芸術は、彼の手に扱われて、その使命を全うしたのである。

(不思議な「天使祝詞」の力 完)

 

<天の加護>

或る日、ドン・ボスコが学校で公教要理の説明をしていると、突然鋭い銃声が起こって、弾丸は校舎の窓から、ドン・ボスコに向けて放たれた。
けれども幸いに、弾丸(たま)は胸と左手の間の僅かな空隙を通って、逸れてしまった。
ただそのために、黒衣(スータン)はひどく引き裂かれた。

彼は少しも取り乱さなかった。
極めて落ち付いて、此の涜聖的行為に驚かされた少年達を鎮めた。
如何なる悪魔的精神に謳(か)られたのか知らぬが、凶器を以て神の僕(しもべ)を狙うということは、確かに涜聖的行為であった。

これより先き、ドン・ボスコは、当時ペルリーチェ川、及びキゾーネ川の流域から溢れ出して、ピエモンテ州の町々を手始めに、全イタリアの都市に
侵入して人心をかく乱しつつあった、ワルド派の異端者を、説教と文書とによって、攻撃し始めたのであった。

で、この攻撃を止め、少年を収容することも止めよという脅迫を既に各方面から受けていたので、この狙撃の目的も、ほぼ見当がついた。
(訳者注:ワルド派の異端は、十二世紀にフランス、リオンの一商人、ピエール・ヴァルドの始めたものである。
フランス王フィリップ・オーギュスト及び、フランソア一世のために大部分滅ぼされたが、今日も尚、キゾーネ川、ペルリーチェ川の谷合に余喘を
保っている。)

 

不幸にして、かくの如き狙撃は、今後もなおしばしば、場所と方法を変えて行われたのであった。

ワルド派の一群は、一八四八年の後半には、トリーノ市中にテントを張って住んでいた。
その場所は、現今のヴィットリオ・エマヌエーレ二世大通である。

その直ぐそばには、ドン・ボスコが前の年の一八四七年に開いた第二の祈祷所、即ち聖アロイジオ祈祷所があった。
これは、多くの少年がポルタ・ヌーヴァから、わざわざヴァルドッコまで通って来るので、彼等の便利を計って、此処へ第二の祈祷所(オラトリオ)を
こしらえたのである。
この聖アロイジオ祈祷所は、今日も尚お非常に繁盛している。

ドン・ボスコと聖アロイジオ祈祷所の少年達は、彼等ワルド派の攻撃を真っ先に受けた。

彼等は、祈祷所の付近に待ち構えていて、甘言と金と威嚇とによって、多くの善良なる少年を祈祷所より遠ざけ、彼等の巣窟へ引きいれんと
試みた。

 

今日でも、彼等は此の金を主要なる手段として、至る所に宣伝を試みているのである。
何処(いずこ)に於てもそうであるように、意志の弱い者は、僅かばかりの金のために彼らの手中に陥るのであった。
祈祷所へ行く少年が気を変えて彼等の集合所へ行く決心をすれば、その場ですぐ一リラほどの金を貰えるのであった。

 

最初の日曜日には、祈祷所へ通う約五百人の少年の中、五十人ばかりの者が、彼等の悪意を余りよく悟らないで罠にかかり、異端の巣窟へ
連れて行かれた。
然(しか)し、次の日曜日には伝教士から諭されていたので、年上の少年が、年下の少年を守って誘惑に陥らないようにして、祈祷所へ集合した。

これを見て、異端者等は烈火の如く怒った。

 

第三の日曜日になると、祈祷所のテントに三十四人の少年勧誘員が現れた。
(これらの少年は、祈祷所へ行く少年一人に対して十六ソルディの金を与えて、之を誘惑するのが役目であった。)

この様子を見て、従順な祈祷所の少年達は、子羊の如く自分達の小屋に退いた。
ところが、気狂いのような異端者等は、少年達に向かって猛烈に石を投げ始めた。
祈祷所は攻略せられんとする要塞の如く、礫(つぶて)は戸と云わず窓と云わず、恐怖に襲われた少年の眞中にまで飛んで来て、幾人かの
負傷者を出した。

このような卑劣な攻撃は、年上の祈祷所会員を憤慨させた。
彼等は堪忍袋の緒を切らして、危険を顧みず屋外へ飛出した。
そうして、そこら一面に散らばっている小石を拾って、此方(こちら)も負けずに投げ返した。
で、瞬く間に喧嘩を売ってきた奴原を、通りの向こうへ追い返してしまった。

このような傷(いた)ましい情景が展開されたのは、これ一回きりではなかった。
その後、数ヶ月に亘(わた)って、殆ど祝日毎にこんな事件が繰り返された。
ドン・ボスコやその助手達がどんなに之を心配したか、それは想像するに難くない。

 

然しこれでもまだ十分でないかの如く、霊魂の敵はドン・ボスコに対して、尚他の困難を生ぜしめた。
ワルド派の異端者等は、ドン・ボスコの始めた『カトリック読本』というのは、一八五四年にドン・ボスコが自ら始めたもので、一般民衆の趣味に
適するような平易な話をのせた小冊子を、月二回発行したのであった。

これは、極めて時宜に適した出版で、非常な成功を勝ち得て、今も尚、ドン・ボスコの後継者によって続けられている。
現在では、第八八七号に達している。

 

彼等ワルド派は、最初祈祷所へ押しかけて行って、ドン・ボスコがただ一人で応対するのを見ると、激越な言葉を以って彼を威嚇した。
次いで彼等は実行に移った。

或晩八時過ぎに、ドン・ボスコがいつもの通り夜学で教えていると、人相のよくない二人の男が来て、瀕死の病人が告白をしたい云うから、
一緒に近くの『クオル・ドーロ』という家まで直ぐに来てくれと頼んだ。
ドン・ボスコは彼等の求めに応じたが、用心して腕ッ節の強い、勇敢な少年を数人伴って出かけた。
これは神のお示しによるものであろう。
若し此の時、ドン・ボスコがこれらの屈強な若者を伴わなかったとしたならば、その晩恐らく帰って来なかったであろう。

 

彼はプロテスタント教徒に雇われた一群の悪党に囲まれて、毒の入った葡萄酒を呑むことを強いられたのであった。
ただ、聖母マリアの加護と、彼の機転とが、悪人の罠から彼を救出したのである。

その後も、もっと直接に、もっと組織的に幾つかの陰謀が企てられたが、――例えば一人の暴漢に、三度短刀で切りつけられたことなども
あったが――いつも彼の助けによって危難を免れたのであった。

 

悪魔が躍起となって暴力を逞しうすればするほど、神は益々彼の身辺を安全に護って下さったのである。
これによって祈祷所の少年達は益々ドン・ボスコを敬慕するようになった。
そうして弟子達の霊魂上の問題になると、御主の聖寵は全く特殊の助力をドン・ボスコに与えたのであった。

 

 

一八四七年の或る日曜に、ドン・ボスコはストレーザへ旅行したが、丁度彼の知人であるトリーノ市の請負師フェデリーコ・ボッカと道連れになった。
ドン・ボスコはボッカの方へ向き直って暫く考え込んでいたが、やがて叫んだ。

「私が不在だもんだから、カルパーノ君は働きに出て来ないし、バネッタもコスタも祈祷所へ来ませんよ。」

カルパーノと云うのは神父で神学博士、他の二人は弟子の中で一番出来のよい少年で、三人ともドン・ボスコの助手として、祈祷所の仕事を
手伝っていたのである。
フェデリーコ・ボッカから、ドン・ボスコの言葉を聞いた時、此の三人は茫然として、云うべきことを知らなかった。
彼等はドン・ボスコが神の特別のお示しによって、其の日、自分達の怠慢を見透かしてしまったことを覚ったからである。

 

このように、トリーノ市に開かれた最初の祈祷所に於ても、又その後開かれた凡ての祈祷所に於ても、善徳に悖る行為が行われた時、
ドン・ボスコが何時もそれを知っていた。

 

彼の愛はいつも赤々と燃えていた。
或日のミサに於て、ドン・ボスコは無数の少年に聖体授けるには、ホスチアが足りないと云うことに気がついた。
そう思うと彼は最後の晩餐に於けるイエズスの如く、優しい目を以て、暫く天を仰いだ後、聖体を授け始めた。
後から後からと来る少年にいくら聖体を授けても、ホスチアは不思議に不足を告げず、至頭最後の一人に授けるまで、ホスチアを裂く必要が
なかった。
少年達、殊に凡ての事情を知っていたブッツェッティは此の有様を見て驚嘆した。

神の助けを以て多くの霊魂のために霊的食物を殖やした彼は、又弟子達のために物質的食物も殖やしたことがあった。

即ち、一八四九年「良き死を遂げるための祈」をした少年達を遠足に連れて行ったドン・ボスコは、帰ったら栗を御馳走すると彼等に約束したので
あった。

ところが、母親のマルゲリータはうっかりして、僅かの栗しか準備しておかれなかった。
で、ドン・ボスコは此の栗を増やして、大勢の少年を飽かしたのであった。

又これと同じような機会に、はしばみの実を増やしたこともあった。
然しドン・ボスコは、ただ彼自身と自分の弟子のためにのみパンを殖やしたのではなかった。
キリストの愛が凡ての人を包含する如く、彼の愛も凡ての人に及んだのであった。
これについてはダルマッツォ神父は次の如く記しているのである。

 

×  ×  ×  ×  ×

一八六〇年の或日のことであった。
祈祷所にパンが無くなってしまったので、雇人が幾人かドン・ボスコにこの話をしたが、彼は告解を聴いている最中で、適当な返事をしなかった。
しまいにドン・ボスコは、此の男に心配するなという合図をして答えた。

『残っているパンを、大きな籠(かご)の中へ入れておきなさい、今直ぐ私が自分で分けるから。』

少年の告白を聴き終ると、ドン・ボスコは立上って戸口へ近づいた。
この戸口の所でいつも、少年達に朝飯のパンを分け与えるのであった。
閾(しきい)の前には、既にパンの籠がおいてあった。

その時私(ダルマッツォ神父)は、ドン・ボスコについて聞いていたことを思出して、好奇心に駆られ、よく様子をみてやろうと、彼よりも先に
籠のある場所へ行った。

部屋を出ると、私は自分の母に出遇った。
母は急いでトリーノに来るように手紙で招かれて、私を連れ戻るために此処へ来たのであった。
『フランチェスコ!さア、おいで!』
と母に呼ばれたけれど、私は一寸の間、向うへ行っててくれるように合図をして、こう云った。

『お母さん、僕、帰る前に、一寸見たいものがあるからね。見たら直ぐ行くから、少し待ってて。』
母親が廊下の方へ行ったので、私は誰よりも先にパンを一つ取り出して、その時、中をよく覗いて見たが、精々(せいぜい)十五か二十くらいの
パンしか入っていなかった。

それから私は人に気づかれないように、ドン・ボスコの直ぐ後ろの階段に昇って、大きな眼を見張って、不思議の行われるのを、今か今かと
待っていた。

その中(うち)に、ドン・ボスコはパンを配り始めた。
少年達は面前に列を作って、一人ひとり嬉しそうな顔をして、彼の手からパンを貰(もら)い、その手に接吻して立ち去った。
ドン・ボスコは、彼等一人ひとりに微笑しながら、優しい言葉を与えていた。

四百人ばかりの生徒が、みんなパンを貰って配給が終わった時、私は又、籠の中を覗いて見た。
ところが、生徒にパンを配る間に、他所(よそ)からパンを運んで来たこともなく、又、籠を更へたこともないのに、その籠の中には、
先刻と同じ数のパンが入っているではないか!

 

私はびッくり仰天して、母親の所へ駆けて行った。
『さア、行きましょう。』
と母親が云ったが、私は答えた。

『僕はもう、帰るのが厭(いや)になっちゃった。もうずうッと、此処にいますよ。
折角、お母さんに迎えに来て貰って、済まないけれど……』

と、私は目のあたり見たことを母に語り、
『こんなに神様のお恵みを戴いている祈祷所や、ドン・ボスコのような聖人の側を離れるのは厭ですよ』
と云った。

 

私はただこれだけの理由で祈祷所に止(とど)まるようになり、後には彼の弟子の中に加わるようになったのであった。

(以上が、ダルマッツォ神父の記した所である)

×  ×  ×  ×  ×

 

次には、ヂュゼッペ・ブロジオがこう記している(この人は、何時もイタリア独立戦争中に戦場へ着て出た、立派な狙撃歩兵(ベルサリエーレ)の
軍服を着て、祈祷所へやって来た人である。)

 

私がドン・ボスコの部屋にいた時、一人の男が施しを求めた。
彼の云うには、自分には、四五人の子供があるが、前日から何も食べさせることが出来ないので、気息奄々としているというのであった。

 

ドン・ボスコは、同情の眼を持って此の男を眺めたが、それからあちこち探して、約四ソルディ(約四銭)見つけて、その男に与え、
同時に彼を祝福してやった。
男は礼を述べて立ち去った。

二人きりになると、ドン・ボスコは私に向かって、金を沢山もっていなかったのが残念だったと云った。
あの男は自分に真実のことを云ったのだから、若し自分が百リレ持っていたとしたら、みんなやってしまった筈だと云った。

 

「あの男が本当のことを云ったというのは、どうしてお分かりになったんですか?」と私は尋ねた。
「あの男は憐れッぽい様子をして金を貰い、蔭では赤い舌を出しながら、好きなものを飲み食いするのを商売にしている手合いじゃないですか?」

「いや、ブロジオ君、その心配は無用だ。
あの男は真面目な正直な男だからね。
そればかりじゃない。
勤勉で、家内や子供も可愛がっているが、ただ不時の災難であんなに落ちぶれてしまったんですよ。」

「どうしてそんなことまで分るんですか?」と驚いて尋ねると、ドン・ボスコは私の手を取って、固く握りしめながら、私の顔をきっと見て、
それから秘密を打ち明けるような態度で、

「私はあの男の心を読んだんですよ。」と云った。

「へーえ!じゃァ神父さんには、私の罪も見えますか?」

「見えますとも!少し匂いがしますよ。」と、ドン・ボスコは笑いながら答えた。

 

実際、ドン・ボスコは匂を嗅ぎ分けたに違いない。
と云うのは、告解の時に、私が云い忘れたことを、此の時ドン・ボスコは即座に私に云って聞かせた。
而も、極めて正確に云い表したのである。
私の住んでいた所は、ドン・ボスコのいる所から少なくとも半里は離れていたのであるから、私の心を読んで知る以外に、此の事を知る道は
なかったのである。

 

これについては、もう一つ逸話がある。

或日私は一つの善業をなしたが、このために私は大きな犠牲を払い、且(か)つ、之を知るものは一人もなかった。

私が祈祷所へ行くと、ドン・ボスコはつかつかと私の側へやって来て、いつものように私の手を取って、こう云うのであった。

「あなたはあの犠牲によって、実にいい宝を天国に貯えましたね!」

「どんな犠牲をしたんですか?」私は驚いて尋ねた。

するとドン・ボスコは私が内証でした事を、細大洩らさず云って聞かせた。
彼は確かに人の心を読み、遠方に起こった出来事を見ることが出来たのである。

 

或晩、私はトリーノで、ドン・ボスコが四ソルディを与えた例の男に出遇った。
彼は私の顔を見覚えていて、私を押止め、その後の話をした。

彼は貰った金で蕎麦粉を買って来て、ポレンタ(一種の粥)を拵(こしら)え、家中で腹一杯食べたので、其の日からもう半病人でなくなったと
いうことや、ドン・ボスコ様の祝福を戴いたので、商売は日一日と順調になって来たということを話して後、こう云った。

「ドン・ボスコ様は本当の聖人ですよ。
私は決してあの方の事を忘れることは出来ないでしょう。
私共の家(うち)では、あの方を「ポレンタの奇蹟の神父様」と呼んでいます。

と云うのは、私が四ソルディで蕎麦粉を買って来た時は、やっと二人で食べる位しかなかったんですがね、家内七人で腹一杯食べることが
出来たんですもの!」

私はしばしば右に挙げたような事態や、或はこれよりももっと驚くべき事実を目撃する機会を得た。

 

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一八四九年には、之よりもずっと不思議な事が起こった。

或る宿屋の主人の息子で、カルロと云う十五歳の少年が死んだのであった。
彼は死ぬ前に、自分の霊魂の父たるドン・ボスコに会って告解をしたいと望んでいたが、あいにくドン・ボスコはトリーニにいなかったので、
望みを果たさずに死んでしまったのである。

 

ドン・ボスコは、子供が死んで半日してからトリーノへ戻って来たが、この事を聞くとすぐに死の床に駆けつけた。
そうして百夫長の娘の傍らに立ったイエズス様の如く、
「カルロは死んだのではない、眠っているのです。」
と云った。

彼は哀れな死骸に近づいて心中に、此の少年の最後の告白が果たしていい告白であったか、彼の霊魂が死後、いかなる運命に逢着したか
分るものではないと考えると、不憫でならなかった。

そこで、周囲の人々に部屋を去るように頼んで、ただ一人きりになると、ドン・ボスコは短い、しかし熱心な祈をした後、死骸を祝して、
力強く二度ばかり少年を呼んだ。

「カルロ、カルロ、起きなさい!」

すると少年はすぐにドン・ボスコの命令に従って起き上がった。

「ああ、ドン・ボスコ様!」と彼は云った。

「僕は神父様に来てもらいたかったんです。
僕はどうしても神父様に来てもらわなけりゃならなかったんです………神様がきっと僕を逢われんで、神父様を僕の所へ寄越して下さったんです
……ああ神父様!僕を起こしに来て下すって、ほんとによかった!ああ、嬉しい。」

「あなたの云いたい事をみんなお云いなさい。
ね……私は此処にこうして、あなたのために来ているんだからね。」

と優しく云われて、少年は云い続けた。

 

「ああ神父様!僕は地獄に行ったに違いありません。
最後に告白した時、僕は或る罪を隠して言わなかったんです。
その告白をした時より一週間前ばかりに悪い友達が来て、僕を陥れたんです。
僕は友達と、淫らな話しをしたんです……

今僕が見た夢は、ほんとに怖かったんです。
僕は大きな炉の縁にいてね、後から大勢の悪魔が追っかけて来るんです。
今にも悪魔が僕をつかまえて、炉の中へ投げ込みそうになった時、一人の女が出て来て、

『お待ち、お待ち!
まだこの子は、審判(さばき)を受けてないんだから。』と。

云いながら、悪魔を払いのけてくれたんです。
それからしばらく苦しんだ後、神父様に呼ばれて目が覚めたんですよ。
今すぐ告解するから、聴いて下さい。」

 

母親はこの有様を見て大いに恐れ、狂気の如くなっていたが、ドン・ボスコに合図をされて、叔母と共に部屋を出て、家族の者を呼びに行った。

もう悪魔を恐れることはないと云われて安心した息子は、すぐに眞(まこと)の痛悔の態度を示しつつ、告白をした。

ドン・ボスコは少年に罪の赦しを与えている間に、母親は家の人達を連れて部屋へ戻って来たので、これらの人々は皆、
此の驚くべき事実の目撃者となることが出来た。

息子は母親の方へ向き直って、

「ドン・ボスコ様が、僕を地獄から救出して下さったんです!」と叫んだ。

それから二時間近くの間、少年は全く意識明瞭であった。
けれども、此の間、体を動かしたり、物を見たり話しをしたりしたが、体は目を覚ます前と同じように冷たかった。
色々の事を話したが、その中で特に、いつも真面目な心で告解をするように、よく少年達に勧めてくれと、ドン・ボスコに繰り返し繰り返し頼んだ。

 

終いに、ドン・ボスコは彼に尋ねた。

「あなたはもう、神様の聖寵を戴いていますよ。
天国の門は開かれていますから安心しなさい。
天国へ行きたいですか?それとも、私達と一緒にこの世に止まっていたいですか?」

「僕は、天国に行きたいんです。」と少年は答えた。

「そうですが、ぢゃァ天国で又、お目にかかりましょう。さよなら。」

ドン・ボスコがこう云うと、カルロ少年は頭をがっくり枕の上に落として、眼を閉じ、そのまま御主の懐に抱かれて、永遠の眠りに入ってしまった。

 

 

(つづく)

 

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