十字架のしるしについて

 

十字架のしるしの後に唱える事の出来る聖ベネディクトによって望まれた呼祷。

「ああ主よ、十字架のしるしによりて我を敵共より救い給え。」

 

<聖シリル司教の言葉>

「したがって、キリストの十字架のしるしを恥じそれを他のもので隠すのではなく、公然とあなたの額でそれをしるすべきである。
悪魔共はその王たるしるしを見て遠くに逃れ、身震いするやもしれぬ。飲食、就寝、起床、談話、歩行において、全ての行為をこの言葉のうちに行いなさい。」

 

<聖ヨハネ・ダマセノの言葉>

「丁度割礼がイスラエルに与えられたと同様に、これは我々の額に対するしるしとして与えられたのである。これによりて我々信者は未信者と分けられ識別されるのである。」

 

<聖ヒラリオの十字架のしるし>

背教者であったユリアノ皇帝の死後、小アジアの至る所において激しき地震がありました。海はあたかも他の大洪水に地上を沈めたかの如くとなり、国境には海水が氾濫しました。

ギリシャの小都市の住民達はこれらの大被害を見て聖ヒラリオの住まう修道院に走り、憐れみ給いて彼らの助けに来り給うように懇願しました。

彼らは聖人を海岸へと導きました。聖ヒラリオは熱誠を込めて祈り、砂上において跪き、荒れ狂う水上に向かって十字架のしるしを3回行われました。すると直ちに死の如き平穏が訪れました。

この奇蹟を目撃したエピダウロスの人々は長年の間、謝意をもってこれを記念する事を止めませんでした。

 

<ユリアノの話し>

使徒であったユリアノはある日有名な偶像崇拝者を伴って異端の神殿に入りました。
偶像崇拝者が悪魔を呼び出すと、それは直ちに姿を現し、それはユリアノを驚かせました。
そして彼は公教会の教えを捨てる事を誓い、しばらくの間それを忘れていました。

彼の身に危険が迫った時、かつての習慣であった十字架のしるしを行うと、直ちに地獄の霊は姿を消しました。キリスト教の背教者によって行われてさえ、このしるしは非常に力強く、特効あるものでした。
この奇蹟はその惨めさより痛悔へと呼び戻そうとされた天主の慈悲の最後の試みでありました。
しかし不幸な彼の心は頑なであり、天主の全ての呼びかけに無感覚でありました。

 

<聖アントニオの話し>

砂漠に隠棲した聖アントニオはしばしば悪魔の攻撃の中でも最も熾烈なものを経験しました。
彼らは千もの恐ろしい形相で現れました。聖人は彼らの無力さを笑い、彼らが飛行するに対しただ十字架のしるしを行って満足し、弟子に言いました。
「私を信じよ。サタンは祈りと謙遜とイエズス・キリストの御愛を恐れるのである。ただ十字架のしるしのみで、彼を取り払うのに充分である。」

 

<聖マルティノの話し>

聖マルティノはある日、ブルゴーニュの倒壊した非常に古く有名な神殿にて、その近くにあった松の大木を切り倒す事を願われました。
しかしこれに対し異端者共は真っ向から反対しているのを見ました。異端者共は聖人が天主に大いなる信仰を抱いているので、もし聖人が木を切り倒そうとするならば、聖人が丁度その木の下にいる時に自分達が木を切り倒すという事を伝えました。

聖人は条件を受け入れ、木が既に傾きつつある方向に聖人が縛り付けられる事を認められました。
大群衆はその光景を見るために集まりました。聖人がただ十字架のしるしをされると、大木の半分は聖人の所で折れ始め、松の木はあたかも突風に吹かれたかの如くに反対側の、自らが最も安全であると考えていた参観者に降りかかりました、多くの偶像崇拝者はキリストへの信仰を抱きました。

 

十字架のしるしは私的信心として用いる事が可能です。例えば起床後、そして就寝前に天主の御保護を求め奉る手段として、また祈祷の前後、また食前食後に霊魂における危険である過食や誘惑、もしくは罪の機会などの危険に対してなどです。
悪魔は己が克服されし故に十字架を非常に恐れます。
また肉身の危険なる嵐や病などに対して、また旅の際にも用いる事が出来ます。

 

<聖アウグスチヌスが伝える治病の話し>

聖アウグスチヌスは、癌に苦しめる一人のカルタゴの婦人の話を伝えています。
婦人の病について医師は不治の病であると断言し、人間の努力では絶望的であり、婦人は天主に依り頼み奉りました。

復活徹夜祭に女性の洗礼所で洗礼の約束を新たにする事を知っている者達が、そこで婦人の癌の上で十字架のしるしを行われる様に願い出ました。

そこで十字架のしるしが行われると、癌は直ちに治癒しました。

 

<聖ベネディクトのメダイのデザインの一部にまつわる話し>

聖ベネディクトは修院を治める様に修道士らに依頼されていましたが、聖人はしばらくの間それを断っていました。しかし説得され続けて引き受ける事となり、聖人は修院における掟を修道士らに遵守させる様に最善を尽くしました。
それは幾人かの悪しき修道士らの怒りを招き、彼らは聖人の殺害を企て、ある日聖人の飲み物に毒が混ぜられた後、一同が食卓につきました。
聖人はいつもの習慣に従って杯の上で十字架のしるしを行われたまさにその瞬間、杯が突然石で打たれたかの如くに砕け、聖人より少し離れて飛び散りました。またその中からは蛇が出てきました。

 

<ある敬虔な婦人の話し>

宗教の教育者にして敬虔な生活を送っていたある婦人が、ある日集まりで若い役人の隣の席に着いた。
そこで彼女は十字架のしるしをもって祈り捧げた。
若い役人が皮肉的な調子で言った。「ああ奥様、それは何でしょうか。」
「キャプテン。」夫人は答えた。
「あなたは、あなたのほまれの十字架を恥じておられますか?」
「とんでもない。」
「それでしたら十字架のしるしが私に栄光とほまれのしるしであります事を御存知でいらっしゃいますね。」

一団は婦人の言葉と行いを認めざるを得ず、若い役人はよろめき出て貧弱な謝罪と弁解をするのみでした。

 

「あなたが『十字架のしるし』為す時、常に内なる精神と共に為せ。
十字架はあなたの全ての行いにおける区別を示すしるしとならねばならぬ。
このしるしはいと祝せられし聖三位に光栄を帰するものである。」
(我らの主より神秘家ベニグナ・コンソラータ修女へ)

 

<どのような場合に「十字架のしるし」を為すべきか>

公教会信徒は、祈りの開始と終わりにおいて行います。
また聖堂の前を通り過ぎる時や、イエズスの幕やに敬意を示す時、聖堂に入堂する時、聖体を拝領した後にも行います。
更に、恐れや誘惑や困難の時や、墓地の前を通り過ぎる時や、死者を思いこす時、十字架の御像を目にした時や、天主に光栄を帰し奉る事を願ういかなる時、悪や恐れや誘惑を遠ざけたい時に行います。

15世紀に書かれた本にはこのように記述されています。

「もし朝の起床時に自ら『十字架のしるし』をし、家を出る前に手を洗うならば、悪魔はかれを害する力を持たぬ。
さもなくば、その日に為さるるいかなる労働も益をもたらさぬのである。」

「食前の祈りを捧げぬ者の食卓には悪魔が座して飲食するのである。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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