諸聖人・キリスト者に倣う

 

「わが娘よ、あなたはわが天主なる御傷に、罪人のための恩寵に捧ぐ働きをまっとうする必要がある。」

「次の聖祭を行うにおいて、ファティマの信心が最も重きものとなろう。」(教皇ピオ12世 1958年)

「守護の天使は、我らの惨めなるさすらいの世話をなし給う。」(聖アウグスチノ)

「ああ聖主、煉獄の霊魂らのために御父に祈る事を、我らに教え給え。」(聖マチルダ)

「キリストは今日、聖パウロの如き使徒を必要とされているのである。」(ベネディクト16世教皇聖下)

「あなたがただ、(煉獄の)苦しみからの解放に対する、聖なる霊魂らの憧れが、
いかに大いなる熱望であるかを知るならば!
忘恩は、決してこれまで、天つ御国に入る事ができませんでした。」(
聖マリア・マルガリタ・アラコック)

 

常に大いなる信心をもって「栄唱」を唱える事を忘れないで下さい。

隠者ホノリウスは、注意を払わず聖務日課を唱える事に慣れてしまったある修道士が亡くなって後に
現れた事を話しました。

そして、その怠慢の罰で、修道士がどれほどの苦しみを経験させられたかについて尋ねた所、修道士は、
かつて
「栄唱」を敬虔の念をもって唱えた、その信心によって打ち消されたと言いました。

 

<霊名の聖人への祈り>

「わが天なる保護者よ、御身の御名もて呼ばるるを誇りとするわがため、天主の御前に絶えず祈り、
悪魔に打ち克ちて永遠の栄えに到らんがため、我を信仰と徳に強め、戦いの中に我を守り給え。
 アーメン。」

 

<聖祭において、その日の聖人を記念する祈り>

「ああ主よ、我らは天の諸神秘を、終生童貞なる祝せられしマリア、
祝せられし(その日の聖人の御名)、
そして御身の諸聖人の記念のうちに受け奉りたれば、この記念において、
我らに永遠の福楽を得しめ給わんことを、御身にこいねがい奉る。
我らの主、キリストによりて。」

 

<諸聖人への祈り>

「ああ御父なる天主、一切の聖性の源よ、御手の御わざは、御身の諸聖人うちに明らかなり。
御身のまことの美は、彼らの信仰の映しなり。
彼らの祝せられし一生の精神の、かの霊によりて満たされし彼らの喜びの小分けを熱望する我らをして、
地上において彼らの信仰を共に分かたしめ、
御国にありし彼らの平安をもまた我らに知らしめ給え。
我らの主、キリストによりて願い奉る。アーメン。」

 

 

 

祈りのあるべき態度

 

・聖ベルナルドは、ある朝、天使が修道士らの祈りの時、香りに満ちた香炉を持って
一隊を通って行くのを見ました。
それらの香炉は、熱心なる心を持って祈られたものは、大変甘美なる香りを発し、
怠慢や眠気を持って祈られたものからは、吐き気を催させる臭いがありました。

 

・聖マリア・マグダレナ・パッヂ童貞は、霊魂の大いなる幸いと益を得る為、一日に33度、
御聖体を訪問しました。

 

・「祈りの習慣を持たざる霊魂は、自由なき、麻痺した体のようです。
手足を持てど、それを使う事が出来ません。
従って、祈りを断念する事は、私には、まっすぐな道を見失う事と同じであるように思われます。
我らに来たり給う天主の全ての聖寵の門として祈りがあり、これが閉じられる時、
我らが何を持ち得るか、私は知りません。」
(アビラの聖テレジア)

 

<御受難会の聖人に捧ぐ祈り>

「十字架の聖パウロ、聖ガブリエル、聖ジェンマよ、我らのためにとりなし給え。
御身らは各々御自らの特別なる方法にてイエズスの御受難とマリアの御悲しみとに生き給いたり。

聖パウロよ、御身の祈りと償いと、御受難と御復活の説教との手本によりて、
いかにして御苦難と記念と、我らの心中にイエズスの御死去と御復活とに生くるを保つかを教え給え。

聖ガブリエルよ、御身の天主への驚くべき忠誠もて平凡なる事物を為し給いしによりて、
いかにして我らを囲む全ての、今日十字架にはりつけにせられし者への慈悲深く応ずるかを示し給え。

聖ジェンマよ、御身の御肉身はキリストの御傷をもてしるされ給いたれば、
己と家族の苦しみを受け入れるにより、主の御体なる公教会がためのキリストへの苦しみにおいて
足らざるものを補わんように我らを導き給え。

御受難会の聖人よ、キリストに従い奉るに、更なる満ちたる祈りと喜びの念に我らを奮い立たしめ給う、
御身らの与え給いし途方もなき激励に謝し奉る。
御身らの友好ととりなしの御力に頼みて、我らはこの請願を御身の愛深き御手に置き奉らん。

十字架の聖パウロ、聖ガブリエル、聖ジェンマ、我らのために祈り給え。」

 

 

<諸聖人・教皇の御言葉>

「あなたが単純さと謙遜とにおいて過つならば、あなたは聖心との友情を失うでしょう。
あなたの心はそれから誤りと欠点の棘とアザミを生み出すだけの不毛な地のようなままにされます……
これは故意の過ちについて申しております。」
(聖マリア・マルガリタ・アラコック童貞)

 

「キリストへの仕えより高き尊厳はないのである。」(聖アンブロジオ)

 

「我あまたの大いなる恩寵を聖人らより受け奉りしが、更に大いなる恩寵を
(煉獄の)聖なる霊魂より受け奉りたり。」
(ボログナの聖カタリナ)

 

「あなたは今日の世が何を必要としているかを御存知だろうか?
聖人!幾千の、無数の聖人である!」(教皇パウロ6世)

 

聖マルティノはある日一人の貧しい乞食を見つけられ、自身の外套の半分を分け与えられました。
聖人が外套を与えられたのは実は主キリストであり、我らの主は後に聖人に御出現になり、
聖人に感謝を伝えられました。

ドミニコ会士であった福者ヨルダノは、天主の御名によって願われる施し物を決して拒む事は
ありませんでした。
福者はある日財布を忘れ、その時一人の貧者が天主の御名によって施し物を願いました。
当時学生であった福者は最も大切にしていた高価な腰帯を与えました。
少し後に福者が御聖堂に入ると、十字架上のキリストの御腰に同じ腰帯が巻かれ、
福者はキリストにもまた施しをした事を知りました。
我々の全ての施しはキリストへの捧げです。

 

「キリストは今地上に御肉身を持ち給いませんが、しかしあなたのものを持ち給うのです。
御手を持ち給いませんが、しかしあなたのものを持ち給うのです。
御足を持ち給いませんが、しかしあなたのものを持ち給うのです。
あなたの目を通してキリストの慈悲はこの世を見られ、あなたの足をもって彼は善を行い給うために
進まれ、あなたの手をもって彼は今我々を祝し給うのです。」
(アビラの聖テレジア教会博士)

 

 

<3枚の金貨>

20世紀の初頭のチリにイエズスの聖心の偉大な使徒として名高き若き一人の司祭、
マテオ・クローリン・ボエヴィがおりました。
またマテオ神父は愛を持って"3枚の金貨"を稼ぎ出そうとする所では誰でも多くの聖寵を得、
多くの回心がそれに続いた事を説教しました。

マテオ神父の親類に、一人の8歳になる少女がおりました。
少女は聖体拝領の際にイエズスが自身に語りかけられる事を明かしました。
神父は少々懐疑的であり、イエズスがその証拠を与え給うように願い出る事を少女に求めました。
証人となった神父が願ったのは、大変な罪人である事は間違いない、公教よりはるかに遠ざかり、
公教会の敵となった人物の速やかな回心でした。

この人物は神父のもとに告解に来るべき人物でありました。
少女はその罪人が公教会にやがて来るであろう事を伝えました。
マテオ神父はその約一週間後に聴罪を終え、告解室を離れようとした時、
その公教より遠ざかっていた者が
公教会に歩み来て、告白を助けてくれるように願い出ました。
彼はこれが授洗以来初めてである事、その朝に何かが自身の上に来た事を知り、
突然告解に行く必要性を理解した事を言いました。

マテオ神父は自身が願った証拠を確かに受け取った事を悟りました。
少女はまた主の啓示を伝えました。
「霊魂らのために常に私に願うがよい。私は全てあなたに与えるであろう。
マテオ神父に霊魂らのために願う事を伝えよ。
私はそれらを彼に与える。しかしながら、第一にあなたは私の宣教者でなければならない。」

「私は宣教者として若すぎます!」
少女は若すぎるので宣教者とは成り得ないと思いました。
我らの主はマテオ神父が少女を彼の宣教者となして、少女が霊魂らのための代価を払う事を
保証されました。

「私はあなたを望むのである。」とイエズスは言われました。
「一日に3枚の金貨を稼ぎ出しなさい。」
そして我らの主は3枚の金貨のそれぞれの意味を御説明なさいました。

第一枚目の金貨は霊魂らのためへの神父に対しての少女の祈りでありました。

第二枚目の金貨は小さな犠牲の行い、殊に服従の行いでした。

第三枚目の金貨は聖祭、また聖体拝領を決して自らの罪によって逃す事なく、
またしばしば御聖体の秘蹟に在したまう主を訪れ奉るという約束でありました。

 

 

貞潔

「純潔なる霊魂は美しきバラであり、三位のペルソナに在し給う天主はその芳しき香りをかがれようと
して天より下り給うのである。」(聖ヴィアンネ)

 

「純潔は徳のユリであり、人間を天使とほぼ等しくするのである。
全てはその潔白に従って美しく、現在正直さ呼ばれる人の純潔とそれを遵守する者は光栄にして
高潔なる者である。

そしてその反対は腐敗と呼ばるるのである。
要するに、これは他の諸徳を超えた優越性を持ち、
それは霊魂と肉身の両方を染みの汚れなく保つのである。」(聖フランシス・デ・サレジオ)

 

「我らの主イエズス・キリストの御受難の記念と同じく肉欲の情熱に対する力強き治療はないのである。
私の全ての困難の中で、私はキリストの御傷ほど特効あるいかなるものも見つけなかった。
それのうちに、私が新しい生命を得るそれらより安心して就寝するのである。」(聖アウグスチヌス)

 

聖アグネス童貞は303年のローマにおいて殉教した。
12歳の若さであった聖女は、キリスト信仰を否定しなければ悪しき評判の館に遣わされるであろう事を
伝えられた。
聖女は答えた。
「あなたは血によって私の身体を汚す事が出来るでしょうが、キリストに捧げられしわが肉身を冒す事は
出来ないでしょう。」
多くの拷問を受けし後に聖女は斬首された。

 

 

聖アガタ童貞は貞潔を愛するが故に死んだ。
聖女は拷問台の上に引き伸ばされて両胸を切断された。
監獄において聖ペトロは示現のうちに聖女を慰め、癒された。
その後聖女は壊れた陶器の破片と混ざり合った焼けた石炭の上で衣服を奪われて回された。
「わが創造主なる主よ、揺りかごより御身は我を守り給い、御身は我より地上的愛を取り去り給うて、
苦しみへの堅忍を与え、今わが霊魂を受け取り給わん。」
聖女は潔白なる霊魂を天主に委ねて息を引き取った。

聖スザンナ童貞と聖フィロメナ童貞は二人とも若き童貞であったが、キリストのための残酷なる殉教を
その身に受けられた。
これは聖福音中のランプの中で天主の愛の油を受け天の新郎なるイエズスにまみえ奉るために進む
五人の賢明なる童貞の如き光輝である。

 

救霊

「私はしばしばシエナの聖カタリナと共に祈るのである。
ああ天主よ、地獄の門の近くにわが場を与え給いて、我がそこに入る者に語るを可能となし給え。
"あなたはどこに行こうというのか、不幸せなる者よ。
戻りなさい、戻るのだ!良き告白を為して救霊を得なさい。
全き永遠なるものを失わんとしてここに来てはならぬのである!"」
聖人は寸刻たりとも時間を無駄に費やさぬ決心をし、聖職にあった35年間に144冊の著述と、
約2万5千の説教を為しました。旅先では48日間で205の説教を行いました。

 

「彼がもし自らの救霊を得、救霊の科学を良く知るならば、彼は現世において成功するであろう。
しかし彼がもし自らの霊魂を失うならば完全なる失敗であり、彼が永遠の救霊を保証出来るものを
知らざれば、彼は何も知らぬのである。」
(聖ドン・ボスコ)

 

聖ヨハネ・フランシスコ・リージスは一度、幾人かの強情な女性達を回心させた事に関して
非難を受けました。
聖人はただ次の様に答えられました。
「もし私の努力がただ一つの大罪を防ぐ事に成功するだけでも、私はその働きを有益であると考えます。」
「人生は短く、すぐに過ぎ去るものであり、ただキリストのために行われた事物のみが
永続する事でしょう。」

 

「我らの時代に生くる、罪のうちに身罷る霊魂に代わりて、我々は自らに如何に応じるであろうか?
今審判を待ちし失われし霊魂を知るからには、我々は彼らの命運と未だ為さざれし行為を規定し、
影響を与え、あるいは違うものとすべきである。」
(尊者 ヨハネ・ノイマン)

 

「我々は天主の御栄えのために働くためにこの生涯の短き時だけを持っております。
当然悪魔は役に立たぬものの中で我々に時間を浪費させんと試みる事を知っております。
ああ、我々は時間を浪費すべきではありません!霊魂を救いましょう!
霊魂は冬の日の雪片の如くに地獄に落ち、イエズスは泣かれております!
我々は彼を慰め奉る代わりに自らの悲しみを考え込んでおります…
簡素な一日の間、またこの人生の夕べに、あなたの心の全き強さと彼のための救霊でもって
イエズスを愛し奉り、それは彼を好ませるでありましょう!」
(幼きイエズスの聖テレジア)

 

「救霊のための熱誠は、天主の御前におけるいと偉大なる功徳であり、貧しき者らに我らの全持ち物を
与える、もしくは我らの全生涯をあらゆる種類の苦行の修練で過ごす事と、
その功徳は等しくなり得ぬのである。

それ以上の天主に対する更なる仕えはなく、天主に一致し奉るこの祝せられし労働に人生を費やす事は、
殉教を受くるよりも天主を喜ばせ奉る事である。
肉身における慈悲の働きにおいて多額の金銭を用いる事が出来しならば、あなたは幸福を
感じぬであろうか?
しかし、救霊を得んと努むる者は更なるものであると知れ。
否、救霊の熱誠の天主の御前における遥かなる功徳は……奇蹟の御働き以上である。」
(聖ヨハネ・クリゾストモ)

 

「全ての時代において、私はわが公教会と濁世を救わんとする勇敢なる霊魂らを必要としているので
ある。」(我らの主より尊者トレスのマリアナ院長へ)

「例え皆が行ったとしても、誤りは誤りである。
例え皆が行わざるとも、正しきものは正しいのである。」(聖アウグスチヌス)

 

聖マキシミリアノ・コルベは言います。
「一つの霊魂がサタンの奴隷である限り、我々に休む権利はありません。」

 

教皇ピオ12世は言われます。
「数多の悪と危機の迫りし間、そして一方で公教会の礎を破壊させるために懸命に働く者がいる間、
誰も暇を持て余し、怠惰である事は許されないのである。」

 

聖ヨハネ・ブレビウスは言います。
「このただ一つの事のために、私はフランスよりはるばる旅をするのである。
私は我らの主のためにただ一つの小さな霊魂を得るために、大洋を航海するのである。」

 

リマの聖ローザの聴罪司祭が宣教に赴く事になりましたが、他国での身の危険の事もあって、
司祭は恐れて、聖女に相談しました。
聖女は答えました。
「神父様、御行き下さい。どうぞ恐れずに、異教徒の改宗のための働きに全てを委ねて下さい。
そして、人が天主に捧げる事の出来る最も偉大なる奉仕が、霊魂の回心であるという事を知って下さい。
何故ならばこれは、使徒の本来の働きです。
更に大いなる幸いを得る事が出来た者は授洗し、一人の印度の小さな幼な子を洗礼の門によって
天つ御国に入れる事が出来るのではないでしょうか?」

 

聖ドミニコ・サビオは彼の仲間の真剣なる回心において、「救霊」における幾つかの使徒的熱意のための
根拠を彼に与えました。
一、私の仲間の霊魂はイエズス・キリストによって取り戻されました。
二、我々全ては兄弟であり、我々は互いの霊魂を愛さねばならない。
三、天主は相互扶助に我らを駆り立てられる。
四、我らが何とか一つの霊魂でも救霊を得させる事が出来たならば、己の
救霊をも確実にする

 

<聖ルイ・デ・モンフォールの著作の引用による修道士の著述>

ステファノ・フィロレス修道士

モンフォールにとって、現世の時間は「莫大な価値」の貴重なものであり、
一つの瞬間も失われるべきではありません。
彼は慰めや気晴らし、もしくは賢者の石を探索する事や、他の者や信者との交際にさえ役立たぬものに
費やされる時間を嘆いています。
モンフォールは時間を天主からの賜物として、「天つ御国を得んがための/我々の行為の正しかる」
という時間と共に、天主に捧ぐべく全体としての、それ以降を見つめます。

マリアへの絶え間なき信心で、「時折」彼女に祈り、「少しの間」彼女に仕え奉るのは充分では
ありません。
「生命のために」我々は愛のしもべとして「マリアを通して天主に」我々自身を奉献せねばなりません。

彼の「我々が季節と天候のうちに知る変化の驚き」を表す時、彼が例えこの英知に通じていたとしても、
モンフォールが関心を抱く時間は季節とは無関係です。
それらは救霊の季節であり、彼は「世人の贖いの対象に選ばれし時」に注意し、そしてその時は
「聖霊の賜物」に変えられ、「イエズスの御血の代価」を与えます。

彼の御死去の際にカードとダイスで興じるが如き罪人は、
「1000回の悔い/この道における自らの時間の喪失がゆえ/ゲームという今日の気晴らし/
決して償いを行わぬ時間」を得るでしょう。

 

<パドバの聖アントニオの教訓>

「心からの慈悲を備えし一人の者が善行を付随させる事は、彼の心を共に与え、
自らの何事かを与えるために必要である。」

「天主に対して慈善の完全とならしむるため、一人の者の隣人の困窮において助けるによりて、
またその過ちを赦すまでに広むる事が必要である。
これを行いて、あなたは生くるのである。」

「あなたの祈願において大いなる信頼と確信を持て。
もし主が速やかに嘆願に応ぜられずとも動揺してはならぬ。
彼はあなたの功徳を増さるるを望み給う故に遅らせ給うのである。」

「望みは、もしこれが仮定のうちに退けらるるものにないのであれば、キリストの御約束と御功徳に
基づくものでなければならず、知恵の始めなる主への聖なる畏れが付随せねばならぬ。」

「慈善、もしくは天主に対する愛は、あらゆる徳の終点である。
慈善なく祈りなくして主に受け入れらるる事能わず、また我らの善行は永遠の生命に役立たぬのである。」

「潔白なる心は祭壇上の燃ゆる信心の香にして、天主の御愛のこめられし慈悲の一瞥を投じ給う
祭壇である。」

「善行を行う事を構わずに信仰をするは、やがて天主の御面前におけし嘲笑にと至るであろう。」

 

謙遜

(聖コルベ神父の言葉集 無原罪の聖母 より)

「謙遜は全ての徳の出発点です。
謙遜の徳が不足している場合には、その他の諸徳も消失してしまいます。」

「無原罪の聖母の御旨が何であるかを知る上で、第一番目に、そして基本的に必要なものは謙遜です。」

「修道者が謙遜であればあるほど、それだけ修道生活を屈せずにやり通す確実性は堅固です。」

「修道者が謙遜であればあるほど、その人の成聖も益々完全なものとなるでしょう。」

「私達の霊魂を無原罪の聖母に向かわせる原動力は謙遜です。」

「謙遜の徳を必要とする人は、丁度子供が母親におねだりする様な態度で、無原罪の聖母に
願い求めましょう。
そうすれば聖母は必ずその願いを御聴き容れ下さるでしょう。」

「どんなに根深い傲慢であっても、無原罪の聖母の御助けがあれば、根こそぎにされてしまうでしょう。」

 

聖テレジアは言います。

「悪魔は服従の、完徳の極みへの近道がそれよりないのを見て、利と見せかけて、巧みに(服従への)
数多の嫌悪と困難をほのめかし、そして我々がそれに続くのを防ぎます。」

 

聖大ゲルトルードはある日、聖体拝領の為の小さなベルの音を聞きましたが、その為に準備をしたいという
気持ちが起こりませんでした。
聖女は主に言いました。

「私は今であってさえも、御身が私の所に来たり給うを見ております。
なぜ最初に、御身は、私が御身に進み、御会いする為に、より相応しく準備をする事に対し、
私の心を何らかの信心の飾りで飾る事をされなかったのでしょうか?」

我らの主は答えられました。

「時に、外側の信心よりも謙遜の徳が、私をより喜ばせる事を知りなさい。」


「一日の謙遜の自知は、それが数多の苦悩と試みで犠牲になったとしても、祈りの多くの日々よりも、
大いなる主よりの聖寵です。」(聖テレジア)


聖大ゲルトルードは一度、自らが天主より受けし数々の益を省みて、赤面して、天主の視界のうちに
自らが留まるに値しないように思い、自らを憎むべきものであるように感じました。
そこで聖女は、隅を見つけました。
そこで天主より、自らの腐敗臭を隠す事が出来るかもしれないと感じたのです。
これにより、御自らを慎ましき者とされしキリストは、天の宮廷の全体が驚くほどの数多の聖寵を、
聖女に与えられました。


ある日、聖アントニオが祈っていると、御声が聞こえてきました。
「アントニオよ、お前は、アレクサンドリアに住む、コリアウスという名前の男の完徳までには、
未だ至っていない。」

聖アントニオは直ちにアレクサンドリアに行き、その男を見つけると、
どのような生活を送っているのかと尋ねました。
コリアウスは答えました。

「私は自分が、これまでに何かの善事したという憶えはありません。
私は朝に起床する時、心の中で、この都市に住む全ての市民が、彼らの善行によって救われ、
私のみが、己の罪よって滅びるようにと唱えます。
そして夕べには、就寝の前に、心より、同じ事を唱えます。」

「いいえ、いいえ、いいえ。」と、聖アントニオは言いました。
「あなたはその賢き修練によって、既に天の御国を確保されましたが、私は浅はかにも、
あなたのこの修練の素晴らしさに達する事が出来ませんでした。」

 

 

<聖フィリポ・ベニーツィの入会>

聖フィリポ・ベニーツィは、1671年にマリアのしもべ会で最初に列聖された聖人ですが、
この聖人はこの修道会に1254年に平修士として入会しました。
後に彼は叙階されていますが、当時強い反公教会の立場を取って頬を打ち叩いた聖ペレグリノを回心させ、
修院に入会させもしました。

入会前に、聖フィリポが祈るために聖堂に行くと、十字架の御像より、言葉を話しかけられるのを
聞きました。
「わが御母のしもべの高丘に行き、生活し、わが御父の御旨を行え。」

翌日カファージョの教会に行き、正面の受胎告知のイコンの前に跪いていると、聖人は自身が荒れ果てた
場所にいる姿の幻視を得ました。
道は砂漠化して危険に満ちており、聖人は叫んで御出現になった聖母に御助けを求めると、
聖母は金で形作られた四つ車輪の、獅子と子羊に
よって引かれ、鳩に上を引かれている戦車を支えられている御姿を見ました。

聖人がその晩この幻視の事を深く悩んでいると、聖人の夢中に聖母が御出現になり、
御自分のしもべを探していると言われました。

聖人は教えを受けるためにボンフィリウス師にもとに行き、これらの幻視と夢の事を話しました。

ボンフィリウス師は、戦車が聖母マリアのしもべ会の象徴であり、荒れ果てた道は、
世俗のむなしい道楽を示していると教えました。
鳩は福音的清貧を表し、獅子と子羊はそれぞれ強さと優しさを表し、
更に四つの車輪は修道士の基本である聖福音を象徴する、とも言いました。

 

 

純粋なる意向

 

<思いと行いの不純なるにより汚れし霊魂の幻視>

「ある日一人の若者が我々のもとに来て、彼の聴罪司祭がこのように伝えたと言いました。

他の女性について考えてもよいが、その思いを行動に移してはいけない……罪は行いのうちにあり、
思いのうちにはない、と。

そうして我々はこの若者に、その司祭が恐らく誤解しているのであろうと教えました。
なぜなら、罪は精神の中に存在するからです。
不純ではない思いは行いになります。
確かに思いは悪魔からの誘惑になる事もあり得ますし、、我々はそれらの思いに対し責任はありません。
しかし我々が抱き、それらの思いのうちに楽しみを持って固執し続けるならば、それらは最も確実に、
その不純の思いと罪の行いに我々を導くでしょう。
不純にして聖ならざる思いは精神の中にはじまり、その後肉身の他のものの所に伝わります。」

聖マリア・マグダレナ・パッジ童貞が幻視したのは、信じられぬほどの悪臭に満ち、
汚物とぬかるみがはびこる土牢であり、堕落した霊魂した霊魂らが非常に致命的なしるしを負い、
堕落の感染と伝染性は、社会における伝染病の如くでありました。

聖女はまた、彼らがむかつきの波によって参らされるのを見、それらの外観と臭いは
大変不快でありました。

聖女はこれらの場所が不純なる行いによって損なわれし霊魂達のために用意された場所であると
教えられました。

 

ある修女は毎日、15連のロザリオを全て唱えていましたが、あまり信心を持たずに唱えていました。
ある日、この修女の前に聖母が御出現になり、第三連のみを唱えるように言われました。

聖母は言われました。
「なぜならば、数多の不注意で信心なく唱えられるものよりも、熱誠をもって唱えられる
幾つかの祈りの方が、御子と私に、更に受け入れられるからです。」

 

主への数多の信心を行い、全く純粋な意向をもって全ての行いを為した聖トマス・アクイナイスに
与えられた報いの一つで、聖人の息絶えし後、聖人の胸の上に、非常に美しい星が現れました。

 

聖マリア・マグダレナ・パッヂ童貞は、絶えず志願者に、天主に全ての行いを捧げる事と、
最も小さき者となるように教えました。
そして、この行いを確立させる為に、時々聖女は彼らが予想もしない時に、何であれ、
なぜそれを行うかについて聞きました。

もし彼らが、天主に捧げる意向なしにそれを行っていると答えたならば、
聖女は言いました。
「あなたはそのようにして、功徳を失っているのを知りませんか?
天主はそのような行いを受け取られません。」

 

<聖なる殉教者への祈り>

「殉教の戦いを為し 天つ御国の諸天使の中の平安を求め
かの苦しき闘争を交わし給いし イエズス・キリストの栄冠者たちよ。
御眼を、八方より霊的危うきに置かれたる 貧しき我に向け給え。
これらの困窮の只中に、我は御身らの大高名を心中に呼び起こし奉らんとす。
御身らは嵐によりて 天つ御国をうる為に 肉身の責め苦を克服し給い、
世の楽しみに打ち勝ち、天つ御国に御眼を据え給いし聖人なれば、
御慈しみもて 我を顧み、天主に対し 御身の御とりなしあるによりて
我に御身の勝利の栄光をも加え給え。
しかして我はまた 世の腐敗と その虚飾を超えし勝利をも得られん。

祝せられし闘士達よ、御身を称え奉るは 我らの慰め 鼓吹 にして喜びなれば、御跡に従わしめ給え。
御名は記念にして 聖を有し給いき。
御身らは まことの天主の栄冠者なれば、わが弱きにおいて わが助けに急ぎ給え。
御身達と共に永久に喜ぶを得る 天つ御国に至るための強さを 我に与え給わんことを。アーメン。」

 

 

<罪人の回心を求むる祈りの必要性>

シエナの聖カタリナは ある日 一人の友を訪ねていった。
その時 街路より 不気味なうめき声が聞こえてきた。

友が家の窓から 外の様子を窺うと、二名の罪人が 罰を受けており、
獄吏より 爪を真っ赤に焼かれるなどされており、
罪人どもは 苦しみながら 天主を冒涜する言葉を吐き続けた。

聖カタリナは その様子を見て、
直ちに 両腕を十字架の形に交叉させて祈りを捧げた。
するとたちまち、罪人どもは 冒涜の言葉を吐くのを止めて 聴罪司祭を呼んで欲しいと頼みはじめたのだった。

罪人どもは もちろん 聖人が自分たちに 回心を得させたとは知らなかったのである。

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