聖ドミニコ司祭

「私は彼が使徒の生活様式の確固たる追従者でありし事を知っているのである。
彼が天国に在し、使徒ら自身の栄光を共有されし事に疑いの余地はないのである。」
(教皇グレゴリオ9世)

 

1170年スペインのカスチラ地方の裕福な貴族の子として古城に生まれる。
福者である母親のヨハンナはドミニコを身ごもっていた間、輝く松明をくわえた一匹の犬が胎内から出て行き全世界に火を灯す夢を見た。
ドミニカネスとは「主の番犬」という意味である。

25歳で司祭に叙階され、1216年に修道会の開設を申請するためにローマでキリストとマリアの幻視を得た。

キリストは御手に3本の槍を手にされ、懲罰として地上に振りかざされようとしていた。
聖母は御子を止められようとしたが、キリストは言われた。
「御母よ、御覧下さい。世界中に三つの悪徳が蔓延っております。
傲慢、肉欲、そして貪欲です。そのため三本の槍によってそれらを討つのです。」

聖母は御子の御足下にひれ伏して御涙を流して懇願された。
「主よ、哀れなる者らに御憐れみもって御怒りを御鎮め下さい。」

「人間共が我々の愛に対し不正をもって報いているのが御わかりになりませんか。」

聖母はそれでも申し出を下げられず、なお主の御憐れみを願われた。

「もう少し御待ち下さい。わたくしは二人の忠実なる天主のしもべを見つけました。
この二人が諸国を巡り人々を御身の御教えに従わせるでしょう。」

聖母は聖ドミニコと聖フランシスコをキリストの御面前に連れられた。

「なるほど、勇敢なる天主のしもべなれば、御母の御旨を充分果たすであろう。」

幻視が終わり一つの教会の中でフランシスコを見たドミニコは直ちに彼とわかり、
「あなたは私の同伴者で、私と共に歩むに違いありません。我々が団結すれば地上的力は我々にかないません。」と語り、抱擁し合った。

 

「情欲を制する者は、彼の世界の主人である。我々はそれに命じるか、それに隷属されるかしなければならない。
金床より金槌である方が良い。」

 

修道会を設けて間もなく、サン・ピエトロ大聖堂で祈っていると、聖パウロと聖ペトロが御出現になり、パウロは一冊の書を、ペトロは一本の杖を与えて言われた。

「さあ諸国に出かけなさい。汝はそのために天主より選ばれたのである。」

 

「麦粒は積んでおけば腐るばかりだが、これを蒔けば実るのである。」

 

ドミニコ寝食を極力減らし、一日を宣教と祈りに時間を費やしベッドで眠る事は殆どなかった。
また一晩に三度ほど鎖で我が身を打ちつけた。一度目は自身に苦行を与えるため、二度目は罪人らの回心のため、三度目は煉獄の霊魂への犠牲のためであった。

当時アルメニアやブルガリアにおいてはカタール派という異端がはびこっていた。
ドミニコはそれに対し懸命に戦ったが、異端はなおも残存し、一時使命の中で落胆した。
祝せられた童貞はドミニコに御出現になり、バラの花輪を示し、ロザリオを教えそれを毎日唱えるように言われた。
そうするとカタール派の者らが次々と改宗し、カタール派をほぼ絶やす事が出来た。

 

「愛徳をかたときも忘れず、謙遜を旨とし、清貧をあなたがたの財産としなさい。修道会を現世の富で汚さないように。」

 

1221年8月4日51才で帰天。息を引き取った時、友人であったグアラ司教はドミニコが立派な座席に座し、イエズスとマリアから天の門に上げられるのを幻視した。

1234年7月13日、教皇グレゴリオ9世によって列聖。祝日8月8日。天文学者、偽りの訴えを受けた者の保護者。

<祈願>

「ああ天主よ、御身の公教会を聖ドミニコの御功徳及び御教えによりて助けさせ給え。
真理のいと卓越せる説き手なりし聖人が、我らのための寛大なるとりなし手となり給わんことを。」

 

<信心深き修練>

この崇敬の行いを十五回繰り返す意向を持って、毎火曜日に、聖ドミニコに光栄を帰し奉る内に、信心深き黙想もしくは祈祷、もしくは何らかの他の信心を行う事によりて時間を過ごす全ての敬虔なる者は、月に一度、通常の条件下で全免償。

(1915年5月6日 聖座認可)

 

 

<聖ドミニコの祝福>

「我らを創り給いし御父なる天主が、我らを祝し給わんことを。
御子なる天主が、主の癒しを我らのうちに送り給わんことを。
聖霊なる天主が、我らのうちに動き給わんことを。
我らのまなこがそれを見、
我らの耳がそれを聴き
手において 天主の御業の遂げられんことを。
我らの歩みが、天主の御言葉を よろずの者に告げんことを。
平安の天使が、我らに御まなこを注ぎ、我らを導き給い
ついには天主の聖寵によりて
御国へと導き給わんことを。アーメン。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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