信仰における母性

「神の母マリア」

L・J・スーネンス著 A・デルコル訳

NIHIL OBSTAT QUOMINUS

IMPRIMATUR

195937日 東京大司教認可

 

私達は、マリアを特別な地位に立たせるこの神的母性を誤解しないよう、注意しなければならない。

教会にとってマリアの偉大さは、単に、一般の母性に特有な、生理的機能のみにあるのではない。

血肉による親子関係は、第一のものではない。

しかし私達は、マリアを人間的なカテゴリーによって判断し、往々にして、福音書の例の婦人のように、「幸せなこと、あなたを宿した母、あなたが吸った乳房は!」(ルカ11・27)と叫び、生理的な機能面だけを考えがちである。

つまり、私達がまず注意を向けるのは、イエズスの生理的な誕生についてである。

しかしイエズスは、「むしろ幸せなのは、神のみことばを信じてそれを守る人だ!」(ルカ11・28)とおおせられ、マリアの神的母性の偉大さを信仰の面において考えるように私達を招かれるのである。

事実、マリアの品位は、超自然的な秩序に属し、マリアがキリストの母となったのは、血肉よりも信仰によるのである。

マリアは、「キリストを胎内より、むしろ心のうちに宿された事で、もっと幸せなお方である」と聖アウグスティヌスは言っている。

また教会の教父達も、"マリアは、胎内におん子を懐胎するより先に、魂の中に懐胎した"とこぞって宣言している。

この彼女を覆う聖霊に対するまったく服従があってこそ、マリアはイエズスを生み出す事が出来たのである。

お告げの時の、「あなたのおことばの通りになりますように!」という承諾は、マリアを完全に神のために聖別されたものとした。

マリアはお告げによって、彼女に対する最大の愛と、あがないのみわざに関する偉大なご計画をお示しになる、神の人間に対する愛を信じた。

そしてこの信仰の実践によってこそマリアは、新約の第一の信者となったのである。

このためエリザベットは、マリアを、「ああ幸せなこと!主から言われた事の実現を信じた人は」とほめたたえる事が出来た。

マリアの偉大さは、世の救いのために、彼女のうちに人性をまとうためにくだった神のみことばを、信仰によって迎え入れた事にある。

この信仰は、神のおんひとり子の人間的なご誕生の起源にあって、彼女の、おん母としての態度を指導している。

マリアに関するカトリック教会の教えが、プロテスタントのそれと異なる理由が、ここから容易に想像出来よう。

プロテスタントにとり救い主のおん母は、ご託身の生理的な手段にすぎない。

彼らは、マリアは、救い主のおん母として選ばれる偉大な恵みを頂いたが、この神的母性の恵みは、マリアに何らの内的変化をもたらさなかった……したがって、この神的母性の恵みは、人祖の罪の結果として堕落した人性の下層を、そのまま残しており、彼女も、他のキリスト信者と同様、神のこの恵みを、壊れやすい器の中に受けていると断言するのである。

彼らの考えでは、イスラエルの乙女は区別なく、神の母となる可能性を持っていたのであり、たまたまマリアが、救い主を生み出す手段となった道具に過ぎないのである。

これに反して私達カトリック者は、マリアはまず、意識して自由に協力する霊的道具であり、彼女の信仰と服従によって実現される奥義の広さと深さに参与するものだと主張する。

つまりプロテスタントは、マリアは、つくり主が被造物と出あった場所に過ぎないもので、一科学者の偉大な発見が、その科学者を生み出した母と無関係のように、世の救いのみわざも、マリアとまったく関係のないものだと信じているのである。

以上の考察から、私達カトリック者とプロテスタントとの間にある、距離の大きさが理解出来よう。

そして、救いのみわざに関するマリアの寛大な協力と、神のご計画の実現化に対して、彼女の与えた承諾の完全な自由を認めようとするなら、マリアが、信仰によっておん子を宿したという視点の理解が、いかに必然的なものであるかが了解出来るだろう。

キリストにとって、救い主として生まれる事が本質的であるのと同様、マリアにとっても、救い主キリストの母である事は――神の定めによって本質的である。

したがってマリアの神的母性は、その生活にあってもなくてもよいような出来事ではなく、その全存在の理由、その予定と特権との理由である。

マリアには、この神的母性以外何の使命もない。

おん子を生み、おん子のために生きる事こそ、彼女の生活のすべてである。

「私のうちにあって生きるのは、キリストである」という聖パウロの言葉は、マリアの場合に、もっとも完全な意味を得る。

世の母が、「私はこの子のために生きている」と言う時、それは、この子が彼女の心配の種であるという意味で、もし文字通りの解釈をするなら、この表現は無意味なものとなる。

しかしマリアの場合、使命と生活がまったく一つのものに同化する。

この使命をよそにマリアの生活も、マリアの生存理由も考えられないからである。

イエズスがマリアにむけたある言葉は、イエズスとマリアを一つの救いのみわざに結ぶつなぎを理解しない人には、いかにも冷厳なものに見えるが、しかしおん子の救いのみわざに対するマリアの本質的な関係こそ、これらの言葉を理解する鍵である。

マリアは、ご自分を超越する奥義の沈黙のうちに入るようにと召された。
そして彼女は、主のみ旨に先走る事も、前もって知ろうとする事もなく、いつもみ旨を果たす用意を整えた。「いやしいはしため」の役割に甘んじ、おん子が救いのご計画の具体的実現の様式を、母であるご自分に知らせない事にも承諾なさったのである。

おん子とおん母との親密な関係には、一つの特性がある。
つまり、マリアの礼拝、沈黙、無条件的な奉献よりこの関係が成り立つ事である。
ド・ベリュ枢機卿が言う通り、マリアの生活は、永遠のみ言葉を礼拝する沈黙の生活である。
そしてこの礼拝を通じてこそ、イエズスは全てを掠奪される英雄的な信仰、全体的な離脱心をマリアに要求するのである。
主が全ての人々に要求する犠牲心のこの道を、マリアは先頭に立って進むのである。

マリアは、おん子を失うならという犠牲を甘受しなければならなかった。
しかしそれも、更に豊かにおん子を私達に与えるためである。
マリアは二様の愛をもっておん子を愛される。
しかし本質的には、二様の愛も唯一の愛ー母としての愛と神の母としての愛ーである。

地上の最良の母がその子を愛するように、マリアはおん子を愛される。
しかしこの愛は、私達に理解し難い純粋さと自己放棄によって、神に付着している。
私達凡人の持つ愛と格段のへだたりのあるこの優れた愛に似た愛を、聖人達のみが、その生活においてわずかに示している。

神であるおん子に対する愛は、マリアの心に激しい火となって燃えている。
マリアは、「存在するお方」の前に燃え尽きる事を知らない藪(やぶ)のように、ご自分のもっとも清い心を、この火に委ねるのである。
しかしこの和合は、私達に悟りにくい。
私達凡人の生活において、自分を忘れるほど他人の利益のために心を砕き、それを自分の利益のように考える人を見るのは殆どまれだからである。
マリアにおいて愛は、そのまったき絶頂にいたって、おん子のみ旨と完全に調和し一つのものとなる。
マリアの存在が、救い主の母としてのその使命に、いかに完全に一致しているかを理解しようとするなら、この視点をそれてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

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