アビラの聖テレジアの主祷文

1942年 C.S.C ウィリアム・J・ドヘニ モンシニョール 教会認可

「我らを試みにひき給わざれ 我らを悪より救い給え」

 

<試みと闘いの必要>

我々はそれを天主に求め奉るので、これらの高尚なる恩寵を我々は考慮し、理解せねばなりません。絶対的なものとして、私が見ます一点より学び始めましょう。
それはこうです。彼らは完徳に達するために天主に試みと、誘惑と、迫害、そして闘いから解放して頂けるようにとは願いません。試みによって苦しみますが、そうした霊魂は聖霊によって導かれる他の明白にしてまぎれも無い証拠があり、また彼らは天主の御手より来る特別な恩寵と黙想を見奉る時、彼らは惑わされません。試みを好み、彼らはそれを求め、愛しさえするのです。

 

<キリストの兵士達の分け前、闘い>

私を信じて下さい。闘いの時はキリストの兵士達、すなわち黙想に昇り自らのために祈りに専念する者達にとって充分であるほど、決してすぐに来ません。彼らは宣告された敵共に大きな恐れを抱かず、彼らは自らそれを知り、そうした相手が天主の強さを備える者達に対する真の力を持たぬ事に気づいています。彼らは常に闘いより勝利者として前進し、報いに富まされます。そうした霊魂が敵共の群れに置かれる事は決してありません。

 

<悪魔は反逆者である事>

恐れるに足る理由を持つ彼らは反逆者であり、また彼らは我らの主より保護を願い奉るのです。これらのうちの後者は自らを欺き、光の天使に変身する悪魔であり、また霊魂に最大の被害をもたらすほどの敵です。彼らは自らの本当の正体を知る事が出来ませんが、彼らは徐々に我々の霊魂の生命ー血液を吸い取り、徳を破壊し、その結果我々はそれを成し遂げる事なく試みに陥るのです。我々が主祷文を唱え奉る時、我々はしばしば我らの主に試みに引き給わざれとこいねがうべきです。我々が試みに負かされる事なく、幻想の被害者とならぬように彼に願いましょう。我々の敵共は光と真実とを我々より隠すでしょう。我々にこの懇願を教え給い、我々のために御父にこう語られ給うた我らの聖主はどれほど義でありましょうか。

 

<妄想の危険>

我々の隠れた敵共が多くの方法によって我々を傷つける事が出来ると云う事を悟って下さい。彼らが我々にもたらすであろう喜びと慰めが天主より来りしものと我々が信じ、もっぱら信じ込ませて我々をだますとは考えないで下さい。それは彼らが霊魂にもたらし得る最も小さな害です。実の所これらの喜びと慰めは、更にいくらかの霊魂を天主への仕えに進むようにと促すかもしれません。こうした喜びは祈祷により多くの時間を当てますので、そうした霊魂を惹きつけるかもしれません。霊魂に対するサタンの影響力を知らずに、この人達は絶え間なく天主に感謝し奉り、殊にそうした恩寵の彼らの相応しからざるを見て、彼に対し常により熱心に仕えようと感じます。彼らは更に多くの忠実を示そうと努めるべきであり、それによって、我らの主は彼らが自ら既に受け取ったと考える新たなる聖寵を加え給うでしょう。

 

<謙遜がサタンからの保護なる事>

常に謙遜である様に努めて下さい。そうした高尚なる聖寵に相応しからざるものをあなたが求めぬように悟って下さい。私はこうしてサタンが自惚れ、既に滅ぶと見なした多くの霊魂を失わせるであろうと確信致します。
従って、邪悪なサタンから根拠を求められる我らの主は善を引き降ろされます。我らの主は我々の意向が祈祷において彼に近づき奉り留まるにおいて、それが彼を喜ばせ、彼に仕える事になる事を確かめられます。
また彼は約束に常に誠実であられますが、我々が謙遜に対し背かざる事、もしくは慢心に取って代わらぬ様に注意すべきです。我らの主にそうした害悪より救い給う様に、聖主があなたを赦し給う事を恐れぬ様に、長きに渡って他の誰からかではなく彼御自らより慰めを受けられる様に願い奉るべきです。

 

<想像上の諸徳の危険>

我々自身の知らぬ、サタンが我々が現実に所有せざる諸徳を備えているという確信へと我々を惑わして多大なる害悪を引き起こすかもしれません。これはまことの悪です。
不注意によって我々は安全と見える道を通ります。そして直ちに脱する事の能わぬ湿地に陥ります。もし我々を地獄へと引きずり込む大罪を犯していないならば、少なくとも足が捕われ、そうして我々は完徳への道に続く事が出来ません。
彼が深き湿地に陥ったならば、彼は如何にして歩む事が出来ましょうか?彼はそこで生涯の日々を終える事を宣告されます。更なる深みに、そして地獄に陥らなかったとしたら、彼は幸運でしょう。
如何にしようとも、彼は決して前進する事は出来ないでしょう。彼がそうした不幸な状況にあるならば、彼は自らを、もしくは他の者達を助けられないでしょう。実際に彼は有害であり、またそこには既に穴がありその道を通過する多数がそこに陥り得るのです。もし一人がその湿地に沈み込んだとしても苦労して這い登り、また土で満たされますのでそれ以上害悪は彼と他の者達には及びません。
私は悪魔が我々を惑わします、我々が現実に持たざる諸徳を持っているかの様に思わせるそそのかしが、非常に危険なるそそのかしである事をあなたに警告します。私は経験によってこれを充分に区別する事が出来ます。私はこの主題において語る事は出来ますが、私が望むほど充分にではありません。

 

<サタンの策略>

サタンは例えば、あなたが清貧であると理解させる事を与えます。あなたは少なくとも口で天主に対しての清貧を誓ったのであり、このうちに真理が存する事をわかります。彼は更に信心深い者達にさえこれを確信させたのです。
もし我々が何を約束し奉るのかを完全に悟り、心からの誠実さをもって約束を為し奉りたならば、サタンは20年間、もしくは一生涯の間に渡ってさえ我々に罠を掛け続ける事は不可能ですので、私は"口で"と申し上げたのです。
確かに我々はそうした行いによって世界を誤らせて考え違いをさせる事を理解すべきです。

 

<純なる清貧の必要>

我々は清貧の約束を為し奉りました。あるいは少なくとも我々自身を清貧と信じ述べます。「我現世の事物を望み奉らず。されどそは欠くべからず。我天主に仕え奉らんがために生くるがゆえ、かの物を保たん。」
結局彼は我々の肉身を養う事を望みます。従って、我々は千の異なる物に対しての欺瞞の弁解を提示せねばなりません。
光の天使に変装した悪魔は合理的に言い表します。彼は我々が既に貧しくまことの清貧の徳を持つので、我々がそれを得るために更に努める必要がないと我々に納得させるのです。
我々はもし行いを注意して検討しなければ、我々が徳を持つであろうかを発見する事は出来ません。現世的事物に過度の関心を抱く人であらば、それが顕れるのは遅くありません。
しかしながら、一つの正当なる動機、もしくは異なる動機についてのためにそれを求める時に、まことの清貧なる者はこの世の事物を重んずる事にそれほど不安にはなりません。もし彼が何事かを欠くならば、それに対してそれ以上思う事はないのです。
もし彼がまことに貧しくなるならば、彼の貧しさを予約しません。地上的事物は彼にとって第一のものではなく、二次的なものです。彼の思いは更に高まるでしょう。

 

<余剰の危険>

何も所有せざる貧しき宗教者は、時に実際に所有するものを持ちませんが、万が一誰かが彼らに何らかのものを与えるならば、彼らはそれを不要と見なすでしょう。
彼らは幾らかの蓄えにおいて常に幸福でありますし、もしより良い布地の衣類を持ち得るならば、より粗末な布を求めないでしょう。万が一病が一般的な治療以上のものを要し、彼らの必要を保証する資金の小さな蓄えしかなかったとしてさえもです。

あなたは天主に対し世俗的事物に関して予約しない事を約束し奉り、例えいかなる事になろうとも蓄えなく彼の御摂理に対しあなた自身を委ね奉りますか?しかしもしあなたが何かを欠かない様に絶えず心配しているならば、収入を固定する事は心配を回避する方法として望ましくないのでしょうか?
更に例え我々が罪なき収入を所有してさえも、それは充分に我々が清貧に対し犯す過ちを理解させます。
そうして我々はこの徳の所有よりどれほど離れているのかがわかるかもしれません。そして我々はこの清貧を天主に求め奉りて、またそれを得るために努めるべきです。既にそれを得ていると誤信するならば、我々はそれを得る機会を完全に断つ事になるでしょう。また更に悪い事に、我々は幻想の中に生きています。

 

<純なる謙遜>

同じ事が謙遜の徳にも該当します。我々が人々から尊敬を求めず、我々が全てのものより離れる様に見えるでしょうが、我々の憤慨と行為の表現とを試験に置くならば、恐らく我々は謙遜ではないでしょう。また我々は受け取る小さな尊敬を拒絶したりはしません。
同様にして、私が語った様な清貧の人は彼らに少しの利点を持つ対象を拒絶しません。そして更に彼らは自ら天主の御旨を求めません!

 

<天主からの慰め>

我々が天主より喜びと慰めを受け奉る時、われわれは彼よりその賜物を受け奉るのみであると感じます。従って、我々はそれらに対する謝意のうちにより大いなる厳守を天主に捧げ奉る事を感ずるべきです。他方、サタンより慰めが来る場合、我々は天主への捧げものを提供し、また彼が見返りをすべき仕えを彼に与えていると考える様に見えます。これらの欺ける観念によって、サタンは徐々に害の最大なるものによって霊魂を徐々に動かします。一方で彼は謙遜を弱めさせ、もう一方では我々が所有していると勘違いして思っている徳を得る事の中で我々を怠慢にさせます。

 

<サタンからの欺ける慰め>

我々が持つこの誘惑に対する治療は何でありましょうか?最上であるのは、我らの主の与え給いしものに見えます。彼は我々が誘惑に陥る事がない様に、永遠の御父に祈り求め奉る事を教えられます。しかし私は補う治療を示しましょう。我らの天主があなたに特別なる徳を与え給うた様に見える時、それを借り物として、彼が取り消し可能であると見なして下さい。またこれは彼の特別なる御摂理なく起る事も、現実にしばしばあります。私は個人的な体験からこれを知っています。
私は時折現世的事物より非常に切り離される事を感じ、また時にそうである事を証明します。しかし他の時にはこれに反して自分がある点において、非常に愛着を持っている事を見出します。……その点は前の日には笑うべくものでありますが……自ら認識する事が難しいものです。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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