チェストホヴァの聖母(ヤスナーゴラの聖母)

 

聖へレナ皇太后が巡礼において、326年にこの御絵を発見せられ、子息のコンスタンチノ帝に与えられました。
彼はコンスタンチノプールにこの御絵のための礼拝堂を建設されました。
サラセン人との重大なる交戦において、この御絵は都市の壁に掲げられ、その後サラセン人は完全に敗北しました。そしてこの御絵が都市を救ったと信じられました。

御絵はその後ハンガリー北西部のルテニアの王子に贈られ、彼に所有されました。
戦いの最中に王が自らの弱小の軍隊を助け給う様に聖母に祈り奉ると、暗闇の中で敵は混乱し始め、互いの間で戦いを始めました。
王はそこを攻撃して勝利を収め、祝せられた童貞の御とりなしによりて救われました。

14世紀のオポラのラディスラウス王子が夢の中で、御絵をポーランドの光山(ヤスナーゴラ)に移す様に願われ、王子はその通りにしました。

1382年にタタール人の侵略があり、ベルツで王子の要塞が攻撃されました。
タタール人の矢のうちの一本は御絵中の聖母の喉元に刺さりました。王子は御絵がタタール人共の手に渡る事を恐れ、チェストホヴァに留まった最後の夜に、地元の小さな教会の中に御絵を据えました。
王子はその後、この御絵の安全のために、1430年に修道院と教会を建設させました。

1430年、二人の略奪者が修院に押し入り、この御絵を奪い取ろうとしました。
略奪者のうちの一人は御絵を二度ほど剣で打ち、もう一撃を加えようとする前に、突如床に倒れて苦しみ悶え、のたうち回る中で絶息しました。
この御絵の中には現在も剣と矢が作った傷が見られます。

1655年、この修院の地域一帯が、スウェーデン軍に占拠されました。
修道士らはこの40日間の占拠よりどうにか御絵を守り、その後ポーランド軍はスウェーデン軍を完全に敗走させる事が出来ました。

チェストホヴァの聖母はポーランドの国家団結の象徴となり、国王は自国を祝せられた童貞の御保護のうちに置きました。

1920年にロシア軍はビスラ川の岸上に集結し、ワルシャワを脅かしました。
その時祝せられた童貞の御姿が都市の空の雲中に現れ、ロシア軍は撤退しました。この勝利は現在もなお「ワルシャワの奇跡」として伝えられています。

また数世紀の間、この御絵への巡礼による奇跡的な治癒の報告もされています。

 

<祈願T>

「マリア、ポーランドの元后、我御身の傍らに御身を思い起こし奉り、御身の傍らに立ち奉らん。」

<祈願U>

「ヤスナーゴラの聖母、ポーランドの元后、我らのために祈り給え。」

 

<チャプレット>

このチャプレットはチェストホヴァの聖母のメダイと十字架の御像、一連が三つの小珠からなる三連によって構成されています。
もし専用のチャプレットを御持ちでなければ、一般のロザリオを数を調節されながら用いられて構わないと思います。

 

まず始めに(メダイで)次の祈りを唱えます。

「ああ全能にして慈悲深き天主、御身はポーランドの国に驚くべき御助け、至聖童貞マリアの保護、信心深き者達の並外れし崇敬と共にほまれあるヤスナーゴラの聖母の御肖像を与え給いたれば、御身の慈悲のうちに、彼女の保護の下に我らが確信もて戦い、生と臨終を通じて我らの敵に打ち勝たん事を与え給え。
我らの主イエズス・キリストによりて願い奉る。 アーメン。」

「ヤスナーゴラの聖母、我らの御母、ポーランドの元后よ、御子に委ねられし力強き御とりなしと、母性的御徳における信頼のうちに信頼し奉りて、我らのつつましき祈りと請願を御前に置き奉る。

我ら御身に全必要、殊に(ここで願います)を、かつ彼らの故国ポーランド、もしくは世界の他所の全ての子らを委ね奉る。」

 

各小珠でそれぞれ「主祷文」「天使祝詞」「栄唱」を三度ずつ唱えます。

 

<祈願V>

「チェストホヴァの聖母よ、御身は聖寵と善と仁慈とに満ちみち給う。
我御身にわが思い、言葉、行い、わが霊肉とを捧げ奉る。
我御身に祝福と、殊に我の救霊のための祈りをこいねがい奉る。
我自身と他の者のために、地上と天におけし永遠の生命において御身の祝福を得させんがため、今日、善き御母よ、我自身を喜びと悲しみに囲まれし霊肉共に御身に全く捧げ奉る。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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