マリア信心と教会信心

 

「神の母マリア」

L・J・スーネンス著 A・デルコル訳

NIHIL OBSTAT QUOMINUS

IMPRIMATUR

195937日 東京大司教認可

 

もし私達が、神の御計画を理解し、これを生かそうと努めるなら、マリアに対する信心は、必然的に教会に対する信心ともなる。
マリアを愛すると言いながら、教会を愛さないのはナンセンスである。
マリアを愛するとは、「教会と同じように考えること(
Sentire cum Ecclesia」であり、教会のすべての考えと感情とを、自分の考え、または感情として、教会からほとばしる恵みの中に入り込むことである。

教会の中で行われる信心以外のマリア信心は、あり得ない。
マリア信心は、教会内の末聖堂に限られたものではなく、本聖堂において行われ、中央祭壇に、そしてその上の聖櫃にまで及んでいるものである。

マリア信心は、教会に対する信心の中心を占めている。
従ってこのマリア信心は、個人的な示しの中でのみで養われたり、個々の信心業のみで表現されることはあり得ない。
そうでないなら、天からの示しの光明を受け入れない事になり、教会から流れ出てマリアへと導く信心の本流の力を利用しないことになる。

といっても、公の示し以外に、何ら個人的な示しもあり得ないというのではない。
ただ、釣り合いと限度のセンスの必要を説いたまでである。
つまり何人も個人的な示しを、公のしめしと同じ段階に置く権利がないということである。
個人的な示しを信じるためには、それを受けた、或いは知るようになった人が、誤ることのないように、極度の慎重さを期さなければならない。
これらの個人的な示しを信じる理由は、どこまでも人間的なものにすぎないからである。
これと異なり、最後の使徒の死によって完成され、教会に任せられた天の示しに対しては、神の真実性に基づいた、一点の疑いも許さない絶対的な信仰をもって認めねばならない。

私達が、狭い意味での信心に真実であるなら教会に対する他のすべての態度にも同様に真実である。
マリアに対する信心は、彼女の恵みの母性の奥義に私達を導入するが、しかしこの恵みの母性は、教会のうちに、教会を通じて執行されるのである。

教会での司祭職は、マリアの精神的母性の特権を、教会の母性自身の豊かさに利用するのである。
以上の考察から、マリアと教会との二つの母性が、いかに密接に関係し、補充し合っているかが明らかになる。

マリアにおける‐‐そしてマリアと共に、マリアを通じて、教会における‐‐この恵みの母性は、神の比類のない父性の豊かさに対応する。
マリアの母性は神ご自身の父性‐‐「父から天と地とのすべての父性が起こった」‐‐に私達を導入する運河である。

神におけるこの父性は、その単一さの中に母性の完全さも含んでいる。
被造世界を支配する自然法と異なり、神には何の二元論もなく、ご自身一人のうちに、全体的な豊かさを備えている。
父である神の愛は、唯一であると同時に完全である。
聖書は好んで、このおん父の完全な愛を母性愛の用語をもって表している。
「たとい母がその子を忘れても、私はあなたを忘れない」(イザイア49:15)

まこと神の愛は、その源泉においてこのようなものである。
そして教会は、この源泉から、その豊かさと母性愛とをいただいている。
教会はこの母性愛を、おん父からマリアを通じていただいたのである。
それはマリアが、おん父のおん独り子であるイエズス・キリストと共に、恵みの生命をもこの世に生み出したからである。

そして教会のこの母性が、司祭職を営む人々を通じて、神の父性そのものを世に表すのである。

 

 

 

 

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