聖母マリアの連祷 (ロザリオの信心より)

五月、聖母月のおつとめに利用して頂けたらと思って、聖マリアの連祷を三十一日に分けてみました。御利用下さい。

 

<第一日>

聖マリア

マリアさまは昔から、「海の星」と呼ばれてきました。
この世の海を渡るものから、案内の星であるマリアさまを取りのけたら、どうなることでしょう。
それは、暗闇と、死のかげをさまようことになるに、違いありません。

彼女は、海上高くかかげられ、功力に輝き、赫々たる模範をもって、私どもを照らす星であります。

荒浪の危険を自覚する人よ。沈没を望まぬなら、この海の星から眼を離してはいけない。

危険の時、苦悶する時、疑惑でさまよう時、マリアをおもえ、マリアのみ名を呼べ。
そして、それを心から離さず、口からも離してはいけない。

そしてまた、彼女の代祷を願うごとく、彼女の尊い模範を見習うことを、忘れてはいけない。

 

天主の御母

天使は、マリアさまに言いました。
「あなたは身ごもって、男の子を産むでしょう」と。
どのようにして、どんな子を産むのでしょう。
それは、神である聖霊の力によって身ごもり、神である御独子を産み給うたのです。

天使は答えて、「聖霊があなたに臨み、……あなたから生まれる子は、神の子と呼ばれるでしょう」と言いました。

よろずの代の先に、天主御父から生まれたもう天主御子は、今や、マリアより生まれて、マリアの子となったのであります。

「天主の御母」、これが我らの聖母マリアさまの、最も優れた光栄であって、彼女が受けたあらゆる恩寵・特典の起源・根源であります。
よろず代まで、マリアさまを称えよう。
それは「全能にましますおん者が、彼女を大事になさったからです」。

 

 

<第二日>

童貞の中でいとも聖なる童貞

 

マリアさまは天使の言葉を聞いて、「私は男を知りませんのに、どうしてそういうことがあり得ましょうか」と尋ねました。
この「男を知らない」という言葉で、乙女マリアは「知ることができない」ということを表されたのです。

これは、聖アウグスチノも言っている如く、童貞女たることを前もって誓願していなかったならば、言えないことであります。

聖トマス・アキノの明らかな言葉によると、「聖母マリアは先ず条件づきで童貞の願を立てられた。
すなわち、神のみ心に叶うなら、或いは神が他の道をとられないならば、という条件づきであった。
後、神のみ旨を知り、その時代の習慣に従って、聖ヨゼフと婚約した時、夫と同意の上で絶対的に願を立てられたのである」。

聖ベルナルドや聖アンセルモによると、聖母マリアは人類のうちで最初に童貞の願を立てられたお方でありました。
詩篇に、「彼女のあとに乙女たちが従う」(詩45ヴル44・15)とありますが、彼女とは、童貞マリアだということができましょう。

童貞女マリアの尊い模範にならって、王たるキリストに心身を捧げて生涯童貞を守る男女が、後世キリスト教会に無数に出ました。
これからも出るに違いありません。

そして童貞女聖マリアは、これら童貞の男女のうちで、最も聖なる童貞であります。
なぜなら、彼女は聖霊によって懐胎し、聖なる神の御子を産みたまうたから、すべての童貞者よりも、聖なるものの本源に一番近いからであります。
聖なる者の本源に一番近い者は、本源以外の、一番聖なる者とならねばならぬ筈であります。

童貞のうちにていとも聖なる童貞、我らのために祈り給え。

 

 

 

<第三日>

キリストの御母

キリストの御肉体は、他から取ってきたのではなく、童貞聖母の御肉体から取られ、彼女のいと純潔な御血によって、形成されたのであります。
これだけが、母と呼ばれる理由に必要なのです。
それで、童貞聖母マリアは、キリストの真実の母であります。

 

天主の聖寵の御母

天使はマリアに向かって、「めでたし、聖寵充ち満てる御方よ」と挨拶しました。

聖エロニモは、この聖句を解釈して「聖寵に充てるとは、よく言ったものだ。なぜなら、他の者には部分的に与えられるが、マリアには全部一緒に、聖寵の充満が与えられたからである」と言っています。

聖マリアは、その御母聖女アンナの御胎に宿られた時、キリストにふさわしい母となる準備のために、充分な聖寵を受けられて、原罪なく宿られたまいました。
次に、キリストの母となられた時、聖寵の作者である御方に最も近い者として、被造物にはこれ以上ない、神との最も親密な結縁によって、聖寵に充ち満ちたもうたのであります。

また、聖霊降臨の時には、生まれたばかりのカトリック教会の母、使徒たちの女王として必要な聖寵を、豊富に受けられました。

なお、聖母マリアが叡智の賜物、予言の賜物などをすぐれて受けられたことに、疑いはありません。
これらの、またその他類似の聖寵は、キリストの如く、ことごとくを用いるためではなく、彼女の境遇に適当なように、受けられたのであります。

叡智は、観想のために用いられました。

「マリアは、これらの事を、ことごとく心に納めて考え合わせておられた」(ルカ2・15)とあります。
予言されたことは、エリザベト御訪問の時述べられた、「マグニフィカト」の賛美に表れる通りであります。

聖マリアが聖寵に充ち満ちたもうのは、ただ御自分の為ばかりではありません。また、我々の為でもあります。

「わが手に宝がある……我を愛する者を富ます為である」との格言の書(箴言)の聖句は、聖母マリアに当てはめられるのであります。

天主の聖寵の御母、我らのために祈りたまえ。

 

 

<第四日>

いと潔き御母

聖エロニモは、聖母の御出産について、「かしこには助産婦も、他のお手伝いさんもいなかった。
聖母は御自身、嬰児を布に包んだのである。彼女自身が母であり、助産婦であった。」
と記しています。

童貞聖母の御産の時は、少しの汚れもありませんでした。
聖アウグスチノはマニ教徒に向かって、言いました。
「おろかな者よ、人たる父と関係なかった童貞聖母に、どうして汚れがあり得よう。
懐妊において汚れなく、出産において苦しみのなかった彼女に、どうして汚れがあり得よう。
いかなる住人も近づかなかった家に、汚れのある筈がない。」

聖フルゼンシオは、「おお、汚れなくなされた結合!神の御子はこの光輝において懐妊せられ、この清らかさにおいて生まれ給う」と言い、
聖ベルナルドは、聖母マリアの口に、次の言葉をおいています。

「私に、何の清めが必要であろう………この懐妊にも、この出産にも、何ら不浄なもの、清むべきものはない………。
汚れなき出産において、最も清浄にせられた私に、律法を守ってどこに清めるところがあろう」と。

いと潔き御母、我らのために祈り給え。

 

 

<第五日>

いと貞操なる御母

聖マリアは、すべての人々にとって、貞操の模範であります。
童貞の願を立てている人も、未婚の人も、既婚の人も、配偶者と死別した人も、貞潔の理想を、聖マリアに仰ぎ見ることができます。

童貞のうちにて、いとも聖なる童貞を見よ。
少女時代のマリアを見よ。
聖ヨゼフと同棲せられたマリアを見よ。
また、ヨゼフと死に別れ、御子とも別れて後、なお長い間、生まれたばかりの教会のために、この世に居残り給うたマリアを仰ぎ見よ。

貞操に反する罪の為に、どれほど世の中が腐敗し、乱れ、地獄の人口が増えているでしょう。
また、この世においても、この罪ゆえに、どれほど恐るべき天罰が下ったことであろう。

されば、人類を救うために天下られた救主が、いと貞操なる御母を選んで己が母となし、童貞女から生まれた童貞として、この世を過ごされたのは、まことに当然のことと言わねばならぬでしょう。

完全な純潔の百合の花は、このような童貞女によって培われている、カトリック教会の庭のほかには、決して咲くことはできません。

いと貞操なる御母、我らのために祈り給え。

 

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