心中の深い祈祷の価値

聖フランシス・デ・サレスは言われました。「心中の深い祈祷は我々の知性に天主の御光をもたらし、我々の意思を天主の愛の炎に保ち、それより良き無知と誤りによる我々の知性を隠す暗闇を払拭するものはなく、また我々の心を全ての堕落した情愛より浄めます。
我々の霊魂の不正を洗い流し、貪欲の渇望によって費やされた心を憩わせ、徳と善なる望みの最初に植えられた種を育むべき役目の祝福の水です。」

アビラの聖テレジア教会博士はまた我々の祈祷を減らす事のない様に助言されます。それは慰めなく、荒廃に満ちたものであるからです。
聖女はある時何年もの間、疲労、嫌気、落胆の中で忍耐強く祈り続けました。その中である日我らの主は大きな愛情をもって聖女に仰せられました。「わが娘よ、苦しむな。現世において霊魂は必ずしも同一の状態にはないのである。時にあなたは熱心となり、時に熱意を欠き、また時には平安の内にあり、時には苦難と試みの内にある。しかしわが内に希望し、何事も恐れるな。」

聖ヴィアンネは毎日教会で祈りを捧げる一人の農夫について伝えられました。農夫は長時間ひざまずいたまま礼拝堂を熟視していました。聖人は農夫に対し礼拝中に何をしているのかを尋ねられました。農夫は答えました。「私は何も語りません。私は天主を見奉り、彼は私をみそなわし給うのです。」

聖アルフォンソ・リゴリオ教会博士は書かれました。「霊魂が彼女自身に心中の深い祈祷を与える限り、あなたは信心の、謙遜の、慎みの模範を彼女に見るであろう。彼女が心中の深い祈祷を放棄するならば、直ちに彼女の謙遜の外観は消え、彼女の誇りは罪を犯す最も小さな言葉に現れ炸裂するであろう。」

聖ラウレンチオ・ユスチアノは書かれました。「祈祷の内に霊魂は浄められ、憐れみと共に放牧され、信仰の内に堅固となり、希望の内に強められ、精神の内に喜びとなるのである。

祈祷によって精神的な者は正しき導き、潔白な心、真理の発見、悲嘆の回避、新たな認識、しおれた徳の回復、生ぬるさの放棄、取り去った悪徳の衰えを得、またこの内に天主の燃ゆる愛の炎と共に天の望みの輝きに生き、現す事を止めないのである。

祈祷の優れたる偉大さ、その特権は大きなものである。この前に天国は開かれ、隠れたるものは明らかになるのであり、また天主の御耳は常に注意深いのである。」

アルバン・デ・チガラ博士は書かれました。「思いは全て事実であり、力である。この力は肉体そのものにも働きかける。思いを強め、積極的になれ。そうすれば肉体は決して衰えないであろう。私達の内にあるこの見えない力は祈りによって生かされ、祈りの力によって高められる。この様な内面的な祈りが言葉に移される時、その力は増す。」

特に名を知られていないある司祭は言いました。「祈らなければ力はなく、小さな祈りは小さな力であり、大なる祈りは大なる力である。これを決して忘れてはならない。」

聖アルフォンソ・リゴリオ教会博士は言われました。「もしあなたが祈るならば、あなたの救霊は確実である。もしあなたが祈らなければ、あなたの霊魂を失う事は確実である。」

アシジの聖フランシスコは言われました。「あなたが現世を去る時に、あなたが受けたものは何であれ取る事は出来ず、ただあなたが与えたものだけである事をおぼえなさい。正直なる仕えによって、愛と犠牲と勇気によって富まされた心である。」

聖テレジアは全ての者が招かれた状態にあると記述されました。「主はいかなる者であろうとも呼びかけられ給うと信じなさい。」我々が全くせねばならぬ事は、呼び求め奉る事です。

ある日聖ベネディクトは祈りの最中にあった修道士達の中に加わるために礼拝堂を歩きました。
聖人が立ってそこを見ると、天使達が各修道士の傍らに立っているのを見て驚きました。
各天使の御前には巻物があり、他の天使達がそこに立っている間、他の天使達は巻物への書き込みに忙しくありました。

聖人が更に近づいて調べると、ある天使達は金で書き留め、いくらかの天使達は銀で書き留めているのを発見しました。
多くの天使達は鉛で書き留めており、また大部分の天使達は気の毒な頭をもたげてそこに立っていました。

聖人は御自身が見たものの意味を教示されました。
金で書き留められた巻物は、よく黙想した修道士らの祈りでありました。
銀で書き留められた祈りは少しの間、二・三の楽しませる気を散らせるものがあった修道士らの祈りでありました。
鉛で書き留められた巻物は、祈りの平凡であった修道士らの祈りを書き留めたものでありました。
最後に祈祷の時間を遊びの思いで気を紛らわせて費やしていた修道士らにおいては、書き留める価値がなく、従って彼らの天使達は動揺し、腕を組んだまま何もしませんでした。

あなたが祈る時、この事を思い御自身に尋ねて下さい。
「どの様な祈祷書が書き留められたいであろうか。金、銀、鉛、もしくは白紙であろうか?」と。

 

<Raccolta 144 心中の祈祷>

ベネディクト15世教皇聖下は1746年12月16日の教書Quemadmodumにおいて、半時、もしくは一日のうちの15分間で心中の深き祈祷を行い奉る全ての信心深き者に、一ヶ月に一度の全免償を与えられた。これを得られるのは告解と聖体拝領の後に聖なる公教会のために天主に祈り奉る場合である。

 

<Raccolta 145 心中の祈祷の教えと学び>

ベネディクト15世教皇聖下の上記に示されし教書において与えられた。

T.公的、或いは私的においてしばしば教える、黙想もしくは心中での祈祷の方法をしばしば学ぶ者は一ヶ月に一度全免償。これを得るにはその日痛悔にあって、告解と聖体拝領の後に聖なる公教会のために祈るべきである。

U.まことの痛悔にあって、告解と聖体拝領の後に教える、もしくは黙想に関する指導に出席するならば、各七年の免償。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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