マリア、神から選ばれた者

 

L・J・スーネンス著 A・デルコル訳

NIHIL OBSTAT QUOMINUS

IMPRIMATUR

195937日 東京大司教認可

 

マリアに対するまことの信心は、上から出発する。
つまりそれは、感情によって引き起こされるものではなく、信仰から命じられるものである。

マリアに対するまことの信心とは、まず、マリアに対する神の御計画を認め、神に一致する事である。
この信心は、神に対する私達の意向を示す要素となる。
つまりキリスト教的義(=神によって聖とされること)は、神の定められた御計画への意思的な承諾と、全く自由に恵みの軌道を定められる神との一致によって始まるからである。

神はマリアを通じて、おん子キリストを救い主としてこの世に与える事により、彼女を、救いの偉大な事業における協力者にしようと望まれた。
聖書にある通り、神の与えられた恵みは修正の余地のないもので、神の定められたこの「秩序」は不変のものである。
ここにマリアの仲介は、恒久的なものとなる。
神がそのように計らわれたからである。

キリストは常に、おん父のみ旨を果たされた。
おん父が定められた過程をへてこの世に入る事に、完全な愛をもって従われた。
このキリストの弟子である私たちは、彼がマリアに対して示したそれと同じ感情を抱くのに、躊躇してはならない。

もし神が、おんひとり子と私たちのために、マリアを選ばれたのなら、私たちの役割は、もうマリアを選ぶことではなく、私たちのおん母として彼女を迎えることである。
私たちは、マリアの美しさと善良さに心を奪われ、彼女に依頼する必要を感じるのみか、神のみ旨に服して従うことを、この上ない幸いと思っている。

聖母マリアに対する、信心の最高の理由はここにある。
神の活躍に制限を加えたり、神が自由に選ばれた仲介者を無用なものとして利用しないのは、私達の権限にあるのではない。
形容し難いほど豊かに私たちを愛し、被造物に、神に似る光栄を分け与えるのは、神独特の分野である。
神の中には、あらゆる富が充満している。
制約などという考えを抱くのは、私たちのようにつまらぬ被造物だけである。

つまり、マリアに対する私たちの孝心は、――彼女のうちに絶えざる証拠として生きる――神の豊かな愛に対する感謝の歌に他ならない。
従ってマリアに対する信心を、神への崇敬を損なう無用な付属物にように考えるのは、全く誤っている。

このマリアに対する信心は、一時、キリスト教の度の過ぎた装飾、一般信者の熱狂的な想像と感覚が生んだ
イメージ、救かり(たすかり)の席を求める優待券などと讒言(ざんげん)されたが、決してそのようなものではない。
この信心は、誰かれの区別なく私たち人間に対する、神の救いのご計画を現すものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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