マリアへの従属の本性

「神の母マリア」

L・J・スーネンス著 A・デルコル訳

NIHIL OBSTAT QUOMINUS

IMPRIMATUR

195937日 東京大司教認可

 

私達がキリストと一致するには、マリアを通じその協力に頼まなければならないが、神のご計画であるマリアへのこの従属の本性を、もっと明らかに、かつ積極的に限定するために、子の母に対するその従属関係を考察してみよう。

20歳になった子の従属と、10歳、あるいは1歳の、または昨日生まれたばかりの子の従属とは、それぞれ大きく異なっているのが当然で、母の胎内にいる子の従属は、百パーセントで最頂点に達している。
これは修道生活の著者達の、私達のうちにあるキリストの生命が成長するように、現実化すべき従属の標準と掲げる例え――限定された相関的例え――である。

ニコデモはその昔、神の国に入るには新たに生まれなければならないとイエズスのお口から聞いた時、「既に年をとっている人が、どうして生まれる事ができましょう?
もう一度、母の胎内に入って生まれる事ができるのですか?」(ヨハネ3・4)と不審げに尋ねた。

これに対するイエズスの答えは、体の再生でない、霊的再生を強調している。
つまり、霊的幼児性である。
これを理解しないニコデモの弟子が、現代にも多くいる。
私達は神の子として、またマリアの子として生きるために、この霊的幼児性をまとわなければならない。
キリストがこの二様の、そして唯一の生命を生きたからである。
マリアへの、私達のこの従属性の二、三の面を更に詳しく見てみよう。

 

全体的従属性

先に掲げた例えは、私たち子の全体的従属性を、一度に理解させる特徴を持っている。
母の胎内にいる子は、どの面から見ても包まれていて、彼の一切は、その生命の泉である母の影響下にある。
子の感覚、呼吸、動きは母に支えられ、動かされている。

マリアの仲介の教義は、この全体性の特徴を明らかに断言する。
すべての恵みは、マリアを経て私達に与えられる。
「全て」とは、「一物も残さす」という意味である。
しかし私達は、この「すべて」の真の意味を理解するのには、ほど遠い。
教会での宗教的教えが、マリアのこの影響の豊かさを詳しく限定し、その多様な面をきわめ、その遍在にも似た特性を解体する必要がある。

「すべては恵みである」とベルナノスは言っているが、まさに事実である。
しかし、すべてが恵みであるとすれば、すべては必然的に、マリアの影響下にあることになる。
この断定は、私達をはるかな遠い結論に導く。
つまり、説教者や霊的指導者達は、マリアの普遍的仲介を、単に肯定するだけでは不充分で、キリスト教的生活の些細事において、マリアのこの仲介がどのように具現化され――マリアの、そして私達の切る、マリアが聖女ベルナデッタに教えた十字架のしるしから、マリアと無関係では済まされない、宗教的、世俗的活躍のさまざまな段階を経て、秘跡の有効な拝受に至る全ての行いに――、その天的恵みの影響で触れるかを説明せねばならない。

子供にとって、母に従属するということは、生きるための必要条件である。
このことは、超自然的な段階においても、私達におけるキリストの誕生と成長のためにも、また同様である。
つまり、すべてはマリアに従属しているのである。
マリアは私達の信心生活のどの部分を受ける権利があるかなどと、考えを巡らせてはならない。
そのすべてをキリスト――聖パウロが言うように、「あなた達はキリストのものである」――に与えねばならないからである。
しかしマリアにおいて、マリアを通じてキリストに与えねばならないのである。

(つづく)

 

 

 

 

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