速やかなる御助けの聖母

 

1727年、フランスのウルスラ修道女会の修女はアメリカのルイジアナに修道会を設立し、それから学校を作りました。

1763年にルイジアナはスペインの所有となり、スペインの修道会が援助に来ました。

1800年に再びフランス領となり、スペインの修道女らは反カトリックの気勢に直面してそこを去りました。

教師不足の中、1803年にカトリックの全寮制学校を運営していた聖アンドレマディエはフランスに増援を要請しましたが、司教のフールニエはフランス革命のために手が届かず、教皇はナポレオンによって自由を奪われており、希望がないように思えましたが、教皇に直訴する許可を与えられて、手紙を送りました。

聖女は祈りました。
「ああ聖なる童貞マリア、もし御身がこの書簡に対する速やかにして良き返事を私に得させ給いたれば、我は御身を、速やかなる御助けの聖母の称号の下に、ニューオリンズにて光栄を帰さするを約束し奉らん。」

聖女は1809年3月19日に手紙を送りました。
困難な状況であるにも関わらず、聖女は同年4月19日に速やかなる助けを受けました。
教皇が聖女の依頼を聴き容れられたので、聖女は幼きイエズスを抱き給う聖母の御像を委ね、司教フールニエはこの御像と御業を祝福しました。

聖女と数人の修道女が1810年12月31日にニューオリンズに赴き、修道院の礼拝堂にその御像を安置しました。
以来その聖母に祈りを捧げる者達のために、速やかなる御助けの聖母の御取りなしがありました。

1812年に近隣で大火災があり、炎が修道院に迫りました。
聖女は祈りを捧げました。
「速やかなる御助けの聖母よ、御身が助けに来り給わざれば、我らは失われん。」

すると突然風の向きが変わり、延焼を免れました。

救援の聖母はまた、アメリカのジャクソンの兵士らとその家族のために取りなしをされました。
戦いの前夜に救援の聖母に都市を守るための、イギリス軍を打ち破る力を祈りました。
アメリカ軍は殆ど犠牲もなく勝利しました。

ハリケーンがニューオリンズを脅かす時はいつでも、信心深き信者は、速やかなる御助けの聖母に祈るのが通例です。

 

<祈り>

「速やかなる御助けの聖母、我らのために祈り給え。」

 

<祈りU>


「ああマリア、世の苦の内にあり、御子の公教会と我らの番をなし給える天主の御母よ、我らと公教会に、速やかなる御助けの聖母となり給え。
我らの困窮の一切の内に我らを助け給い、この浮世に御身が我らの御助けとなり給いて、(ここで願う)を我らに得させ給わんことを。

御子にして、我らの主にして救世主なるイエズスの御功徳によりて、我らに永遠の生命を得させるを助け給え。
アーメン。」

「主祷文」「天使祝詞」「栄唱」を各一回唱えます。

「速やかなる御助けの聖母、我らを助け給え。」(3回)

「速やかなる御助けの聖母、我らのために祈り給え。」

「我らをキリストの御約束にかなわしめ給え。」

 

 

 

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