苦難の価値

「私は天の御国に到るために霊魂が通らなければならぬ川を見た。
その川の名は"苦難"であった。
そして私はまた川の向こうに霊魂を運ぶ小舟を見た。
その小舟の名は"愛"であった。」(十字架の聖ヨハネ)

 

福者ウィリアム修院長は、ある日夢の中で、豊かさと美の素晴らしき冠を編んでいる、幾人かの天使を見ました。
福者は天使方に、誰のために冠を編んでいるのかと尋ねました。
すると天使達は、この冠はあなたの為に編んでいるのであり、福者が充分に苦しんだ時に、編み上がると答えました。

 

福者アンジェラ・デ・フォリグノは、ある日、どのようにして、陽気さを持って苦しみを受ける事が出来るかについて尋ねられました。
福者は答えました。

「私を信じて下さい。
苦しみの崇高さと価値は、我々に知られていません。
もし我々が試練の価値を知るならば、我々に対する、略奪の対象となるでしょう。
我々は、苦しむための機会を、互いより奪い取ろうとする事をしなくてはならなくなります。」

 

我らの主は一度、福者バプチスタ・ヴェラーニに御出現になり、言われました。
「わが娘よ、私は優しさのあらゆるしるしを、あなたに惜しまずに与えるよりも、あなたに苦悩を送る際に、より大いなる愛をあなたに示したのである。

なぜ、わがために選びしあなたを求めるよりも、大いなる愛を示し得るか?
罪より守られる事は大善であり、善行を果たす事は、より大善であるが、苦しみ事は、それらの中でも最善である事を知れ。」

 

いかにして我らの生涯におけし最大の苦を最大の福楽となすか

ポール・O・サリバン神父

苦難は人間の生の大いなる問題であり、我々はみな苦しみを受ける。
時には小さな苦しみ、時には更に大いなる苦しみを我々は共有するのである。
我々は今、如何にしてこの多くの苦しみを避けるか、如何にして全ての苦しみを減らし、また如何にして我々が耐えねばならぬ全ての苦しみより大いなる益を引き出すかについて読者に語る。

苦しみが非常に困難に見ゆる理由は、まず第一に、我々がそれが何であるかを教わらぬ事である。
第二に、我々はそれを耐える方法を教わらぬ事である。
第三に、我々は苦しむ事の極めて尊き価値を教わらぬ事である。
これは我々教師の側の理解なき軽視によるものである。

一部の者がいかに容易く非常なる苦しみに耐えるかは、驚くべき事である。
一方他の者達は最小の問題にさえ興奮するのである。
それは幾人かが苦しむ事について全てを教えられ、他はそうではなかったという単純なる理由である。

 

苦しむ事は悪ではないが、我らはそれがそうであると思うのである。

まず第一に、しかして天主の御子よりも、彼の祝せられた御母もしくは諸聖人よりも苦しんだ者はなく、苦しみは単なる悪ではないのである。
あらゆる苦しみは天主より来たるのである。
それが機会、事故、もしくは何者かの過ちより我らのもとに来たると見えても、実際にはあらゆる苦しみは天主より来るのである。
何事も主の御望み、もしくは御許しなく我らには起こり得ぬのである。
一本の髪の毛でさえも、天主の御同意なくして我らの頭より落ちぬのである。
なぜ天主は我らが苦しむのを許し給うのであろうか?

簡単である。彼は彼の御受難のうちに、少しばかり共有する事を我らに求め給うからである。
天主がそれを許し給うので、機会や何者かの過ちによりて常に来たる様に見ゆるのである。

我らの主の御生涯におけし全ての行いは、我らがための御教えである。
彼の御生涯におけしいとも大いなる行いは御受難である。
これは、そうして、我らに対するいとも大いなる御教えである。
これは我らもまた苦しまねばならぬ事を教えるのである。
天主は我々一人ひとりのために、主の御受難の全てのひどき苦痛を苦しまれたのである。
如何にして、我らは彼への愛のために少しばかりの苦しみを拒否出来ようか?

(つづく)

 

 

 

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