家庭の祈り

ヴィラム著「マリア」より

 

イスラエル人の宗教生活の指導は、原則上男子に任されていた。
例えば律法でも、一定の宗教行事は男子に一任され、男子は律法に通じ、一日二回、信経を唱え、年一回エルサレムに巡礼しなければならない。

宗教界におけるこの男性優先は、子供の教育基調にもなっていた。
なるほど、父親が日に二回信経を唱え、子供が大きくなると、それを教え込み、しかもこの祈りは男性だけのものと教えれば、わかりのいい子は深く長く印象付けられるに違いない。

イスラエルでは祈りの際、エルサレムの方に顔を向けるならわしであった。
預言者ダニエルが追放中に祈った事が聖書にも書かれている。
毎朝イスラエルの全男性が東西南北から、エルサレムの神殿に向かい、神前で一団となるわけである。
イエズスもその一員として、聖都の神殿(聖父が、その最愛の聖子たる彼を含めて万人に対してそこにいます)の方をのぞんだ。
イエズスがこの朝の祈りを唱えて、次のように言う際に、彼の胸いっぱいの愛と献身との光彩を、イエズスの顔に描きこめる芸術家は一人もいない。

「イスラエルよ聞け、主は我らの神、主は唯一のものである。
あなたの神である主を、心を尽くし、魂を尽くし、全力を尽くして愛せよ。
私が今日命じる言葉が、いつまでもあなたの心にあるように、それらをあなたの子らに教え込み、家にいる時も、道を歩む時も、横たわっている時も、立っている時も、それらを語り伝える、あなたの手にハンのように結び、あなたの目の前の下げ飾りのようにせよ。
あなたの家のカマチと門に記せ。」(申命記六、四ー九)

この言辞は、真の神への信仰宣言を述べている。
後に律法学者が、「師よ、最大の掟は何か」とイエズスに聞くと、君らはどんな読み方をしているのかと反問し、イスラエル男子が日に二回も必ず唱えるのをみな暗記しているこの箇所を指示している。
律法学士もイエズスの指定の箇所をさとり、日々の祈りの冒頭で、これにこたえた。

イスラエル各人に、全生活を神意に任せるように命する公式の朝の祈りの第一節に、第二部がつながり、民族全体の幸、不幸は、神との関係で決まるという考えが吹き込まれている。

「もしあなた達が、今日私の告げる掟に耳を傾けて、あなた達の神である主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして礼拝すれば、私は良い時に雨を、春の雨、秋の雨を与えよう。
そうすれば、あなたは麦と葡萄と新しい油とを収穫出来るであろう。
そして私は、あなたの畑や家畜に必要な草を与えよう。
あなたは思う存分に食べれるであろう。

あなた達の心が迷わないように注意せよ。
そうでなければ、あなた達は道から逸れ、違った神々を拝み、ひれ伏し、その結果として、主の御憤りがあなた達に向かって燃え上がるに違いない。
主が天を閉ぢたら、雨も降らず、土地はその実を与えず、あなた達は主が与えようとしているその良い地から、速やかに消え去ってゆくだろう。

従って私の言葉を、自分達の心と魂に収め、手に印形のように結び、額の下げ飾りにせよ。
家にいる時も、道を歩む時も、横たわっている時も、立っている時も、それらを語り伝える、あなたの手にハンのように結び、あなたの目の前の下げ飾りのようにせよ。
あなたの家のカマチと門とにそれを書き記せ。
そうすれば、主があなた達の祖先に与えようと誓われた地におけるあなた達の日々と、あなたの子らの日々とが、地の上の天の日々のように、長くなるだろう。」
(申命記十一、十三ー二一)

イエズスは師として、「まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすればこれらのものは、全て与えられるであろう。」(マテオ六ー三三)と言っているのは、聖書からこの神言を引用し、それを短縮し強化したものなのである。

日々繰り返される第三節は、イスラエル各人はこの掟を守る事によって、エジプトの奴隷状態から救出された感謝を現し、きものに印章をつける事で、神の選民たる事の証を立てる義務のある事を、指示している。

「主はモイセに言われた。
イスラエルの子らに話しかけて、彼らは世々いつまでも、衣服の裾にフサをつけ、角のフサに紫の紐をつけるように、と告げなさい。
さてあなた達は、これらのフサを見る事で、主の全ての掟を思い出させられるに違いない。
こうしてあなた達は自分に売春させるような心と目との欲に従って、正道から逸れる事なく、これらの掟を実行するに違いない。
……私はあなた達の神となるために、エジプトの地から導き出したあなた達の神である主であり、私こそあなた達の神、主である。」(民数紀略十五、三七ー四一)

マリアは、イエズスがこの掟を暗記する前に、彼のきものに、この印をつけた。
青い糸を縫いつけたのである。
子供が「自分でまとう事が出来る」ようになれば、すぐ印をつけなければならない。
イスラエルの祈り手の群れに子がくりいれられる事は、その子にとってもイスラエル民族にとっても特別に重要な事を、マリアはよく知っていた。
イエズスはイスラエルの救い主で、イスラエル人こそ彼の選民であったから。

日々の祈りには、食前食後の祈りも含まれている。
「食卓の祈り」という言い方は、食卓に着いてではなくて、床のマットに座ってするのだから、不適当で誤解され易い。
祈りを先導する役目は、家父またはその為に任命された男性がする。

原則としては祈る前に飲食してはならない。
この祈りには一定の枠があって、飲食物の呼び方も、この枠にはめられる。
例えばパンについての祈りの言葉は、「パンを大地より生じさせた世界の王、我らの神エホバは賛美されんことを。」と言う。
ワインについての祈りはこの原型にあやかって、「葡萄の実を造る世界の王、我らの神エホバは賛美され給え。」とある。
これら祈り言葉は、東方では現代に至るまで、「アラーはほめたたえられよかし」に保存されている。
信心深いイスラム教徒は、水を飲む前にも、今以てそう唱えている。

しかしかかる男子優先は、女子には宗教は不要という意味に取られてはならない。
家族生活や家事についての雑多な仕事は、そのまま女子の宗教的業務と見られ、それを怠れば一家に禍をもたらすと、考えられていた。

例えば、女は安息日のランプを調え、それに点火しなければならない。
しかし女の最高の任務は、子供や子孫を養育し、神の啓示に応ずる事である。
「御子を産める母こそメデタシ」という天使の御告げも、この考え方の証拠なのである。

 

 

 

 

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