<教皇ヨハネ・パウロ1世(1912年10月17日-1978年9月28日)>

司祭生活43年、教皇生活33日、彼は今日もなお教え給うのである。

Il Papa del sorriso(微笑みの教皇)

在位:1978年826日 - 1978年9月28日、在位33日目で帰天された。御本名はアルビノ・ルチアーニ(Albino Luciani)。

ヨハネ・パウロ1世は1912年10月17日、イタリアのカナーレ・ダグロド村(ベルーノ)の貧しく敬虔な御両親のもとに生まれられた。父親は季節労働者で家にいる日は殆どなく、また家族と納屋に住まわれ、飢えや寒さを経験された非常に貧しい生活であられたが、7歳の頃より聖職者になる事を志望されていた。小学校御卒業後ベルーノ教区の神学校で学ばれた後、1935年助祭となってベルーノの聖ペテル教会に入り、7月7日に司祭に叙階された。

その後1937年から1947年まではベルーノのグレゴリアン神学校の副校長を務められ、教皇ヨハネス23世によってヴィットリオ・ヴェネート司教に任命された。1958年であった。丁度この時に行われた第二バチカン公会議には全会期を通じて参加され1969年にベネチア教区の大司教に任命された。

大司教に任命された時、赴任前に周囲から100万リラの寄付があったが「私がここに赴任した時は5リラしかありませんでしたから、去る時も5リラしか持ちません。」と言われ、その寄付金は全て慈善団体に贈られ、わずかな持ち物だけを持ってベネチアに向かわれたといわれる。聖下はどの様な立場にあられても、貧者や病者に対し常に熱心に働きかけられた。

972年にはイタリア司教会副会長となられ、1973年には枢機卿になられた。

1978年、教皇パウロ6世の帰天の後に行われたコンクラーヴェで、第1日目の3回目の投票で65歳であったヨハネ・パウロ1が選出され、清貧と謙遜、柔和な御精神で知られた。
聖下はその御精神からこれまでの宝石を散りばめた教皇冠や戴冠式を取りやめられ、また教皇用の特別な御輿の使用の取りやめも要請されたが、周囲の要望によってこれを御使用になった。また教皇名に初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を御採用になられた。また回勅「フマネ・ヴィテ」を支持されていた。

1978年9月28日の早朝、在位33日目に帰天され、同年10月4日に葬儀ミサが執り行われた。

 

<教皇ヨハネ・パウロ1世の御言葉>

(1978年8月27日 選出後初の演説)

「昨日…昨日の朝、私はシスティーナ礼拝堂に投票に行きました…静かにです。私は何が起るかについて、決して想像する事は出来ませんでした。
私を脅かす事が近づくや否や、私の近くにいた二人の同僚は私に対する激励の言葉をささやきました。

一方は"勇気を持って下さい!もし主があなたに責務を与えられるならば、主はまたその運び手も御与え下さるでしょう。"もう一方は、"恐れないで下さい!全世界の沢山の人々が新教皇のために祈っています。"その時は来て、私が受け取られました。

続いて、私が如何なる名前を取るかの質問がありましたが、私はそれについてあまり考えていませんでした…そして私はこの様に考えを出しました。ここサンピエトロ大聖堂の中で自らを奉献する事を望んだため、そして不相応ではありますがベニスの聖マルコの司教座において私は一層教皇ヨハネを全く充分に受け継ぎました。その船頭であった彼、姉妹達、皆を思い出します。

しかしながら、(教皇)パウロは私を枢機卿にされ、しかも数ヶ月も早くでした。聖マルコ広場の通路において、彼は私を2万人の人々のどこにでも向けさせ、彼は自らのストラを取り、私にかけられたのです。彼の教皇職の15年間において、かつて私をその様に連れられた事はありませんでした。

この教皇は私にだけでなく、全世界にも、我々がいかにして愛すべきか、いかにして仕えるべきか、いかにして働き、キリストの公教会のために苦しむべきかを示されました。そのため私は"私はヨハネ・パウロの名前を取ります。"と言いました。
この事を明らかにさせて下さい。私は教皇ヨハネの心の英知、もしくは教皇パウロの修練と備えのどちらもまた持っていません。しかし私は彼らの立場にあり、また私は公教会に仕えようと試みねばなりません。

あなたの祈りをもって私を助けてくれる事を願います。」

 

(1978年9月6日 一般謁見にて)

「(前略)しかしながら、私は進んで、それを言いましょう。主はいとも謙遜を愛され、そして時に彼は重大な罪を許されます。なぜでしょうか?それを犯した人々は痛悔の後に謙虚になります。我々がひどい罪を犯すと知る時、我々の半分は聖人、天使であるという事を決して信じません。主は我々に対し謙虚であれ、と促されます。
もしあなたが偉大な物事を行ったとしてさえも言って下さい。我々は役立たずのしもべです、と。」

 

 

(1959年2月7日 ある信者への手紙より)

「復活祭にて、天主は御待ちになられます。戻り来る一頭の羊は、信心深さを保つ九十九の者よりも彼に更なる慰めをもたらします。
彼の限りなき御憐れみを与えられ、その中でいかなる犠牲を払おうとも罪を避けるならば、既に犯された罪は我々の手の内で宝石となるほどの、我々が彼に与える事の出来る赦しの慰めをもたらすものとなります。
試みましょう!宝石をお渡しする事は紳士にふさわしい事です。」

 

 

(1959年1月6日 "私はただの貧しき埃です")

「私は主の御考えを、教皇聖下の御考えを、天主の私に対する御摂理を存じ上げません。私は主が御自身の古来からの方式をもって私を用い給う事を、この日々において考えています。
彼は通りの泥より小さな者達を取られて高みに上げ、友人達より、海の網より、湖より人々を取られ彼らを使徒となし給うのです。
天主は銅や大理石の内に記す事を望み給わず、まさに埃の内において、そうしてもし風によって散在せず解体されずに記しがとどまるならば、それは唯一天主の御働きであり、彼の御功徳である事は全く明らかな事です。

私は私以前の小さな者であり、畑より来た一人の者であり、私はただの貧しき埃です。この埃の上に、主は有名な教区であるヴィットリオ・ヴェネート司教の権威を記されました。もしいつか何らかの良い事物がこれより来ったなら、その瞬間にこの事を完全に明らかにして下さい。これはただ主の御憐れみの、聖寵の、善の実であるのだと。」

 

<私のロザリオ>

(教皇ヨハネ・パウロ一世の手紙)

「もし私がカトリック信者の集いに男女を招くならば、彼らのポケットや鞄に何を見つけるでしょうか?櫛、眼鏡、口紅、財布、煙草、ライターと、そして多少の、価値の小さな物でしょう。

ミラノの偉大な作家であるマンゾーニの家のベッドの頭側にロザリオが掛けられているのを今日でさえ見る事が出来ます。彼はそれを唱える事を習慣としました。彼の偉大な小説"いいなずけ"の中の最も劇的な時に、ルチアは珠を引き出しロザリオを唱えます。

ドイツの政治家ウィンドホルストは一度数人の友人達に招かれ、彼らに彼の珠を信仰の為に示す事になりました。これはジョークでした。彼らは前もって彼の左ポケットよりそれを取り除いていたのです。ウィンドホルストは左ポケットからそれを見つけられずに、右ポケットに手を入れ、そして勝利者が現れました。彼は常に余分にロザリオを持っていたのです!

宮廷の偉大な音楽家であるクリストフ・ウィリバルド・フォン・グリックはウィーンでの演奏会において数分間ロザリオを唱えるために脇によります。

パヴィア大学の教授であった福者コンタルド・フェリーニは友人達の家にロザリオを唱える客として招かれました。

聖ベルナデッタは聖母が御出現になられた際、御腕にロザリオをお持ちであられる事を確認しました。聖母はベルナデッタにロザリオを持っているかを尋ねられ、これを唱えるために聖女を招かれました。

なぜ私はロザリオを唱えるこれらの人々の例を挙げるのでしょうか?なぜならロザリオが幾人かの人々によって反論されるからです。彼らは言います。『それは迷信的で幼く、大人のキリスト信者に相応しくない祈願である。』もしくは他に『それは機械的な祈りであり、天使祝詞の反復を人に強いるものである。』もしくは他に『それは過去の遺物であり、今日は聖書を読む方が良い。ロザリオを唱えるのは冷やかしのためにかける何と丁度良い小麦粉だろう。』と。

霊魂の牧者の幾つかの印象を与えて反論する事を許して下さい。まず第一の印象です。ロザリオの危機は最初には来ません。今日一般の祈りにおける危機です。人々は全く物質的利益のうちに従事させられ、少しも霊魂について考えません。そうして雑音は我々に侵入します。マクベスは繰り返すでしょう。"もう眠りはないぞ!マクベスが眠りを殺してしまった!"

内的生活と甘美なる語らいについて、もしくは天主に対話を申し出る事について、数分の時間を見出す事に対して疲れています。何と残念な事でしょうか!

ファン・ドノソ・コルテスは言いました。「祈りよりも更に多くの戦いがあり、世界は悪い方向に向かっているのである。」共同体典礼は発展し、(それは確かに大きな祝福でありますが)しかしながらそれは充分ではありません。更に天主と個人との対話を持つ必要があります。

第二の印象としては、今日"大人のキリスト信者"と祈りの中で話す時、彼らは誇張します。個人的に、私が天主と、聖母と一人でお話し申し上げます時、大人として以上に、自ら子供として感ずる事を好みます。司教帽、ズケット、指輪は全て消えます。私は休暇において大人を、一人の司教でさえも全ての厳粛な尊厳ある者を、彼の地位の正当さを熟考して派遣します。そして私は子供の父母に対する自発的な柔軟性に身を委ねます。

少なくとも半時は現実に私が天主の御前にあるかの如くに、私の全ての惨めさ、最良の事物と共にあります。かつて子供であった私の存在の深みより表面に昇り、笑いを、語らいを、主を愛し奉る事を望む者が、そして時折彼の示し給う慈悲に泣き叫ぶ必要を感じる者が…。これは全て私が祈る事を助けます。単純にして容易な祈祷であるロザリオは、私が再び子供である事を助けます。また私はそれを全く恥じません。

私は別の反対に参ります。ロザリオは反復の祈りですか?チャールズ・デ・フォウカールド神父は言いました。「愛はいくつかの言葉によって表現され、常に同じく、また常に繰り返されるのである。」

私は以前一度列車の中の(座席上の)手荷物置きに赤子を寝かせている婦人を見ました。小さな子は一度目を覚まし、上から母親を見て母が世話を出来る様に面して座しました。彼は「ママ」と言いました。「かわいい子」と彼女は答えました。そしてしばらくの間、二人の間の会話は変わりませんでした。上から「ママ」、下から「かわいい子」。他の言葉は必要ありませんでした。

そして聖書ですか?確かにそれは"一口の概要"ですが、しかしそれを読むための時間、もしくは全ての準備があるとは限りません。またそれを読む人のためにさえ、特別の必要時において、もしくは道上において、事によっては旅の途上で、一定の時において、聖母にお話し申し上げる事は、もし彼女が我々の御母であり姉妹と信じるならば、それは後に有益なものです。

ロザリオの玄義はその芳香の内に黙想し奉る時、そしていかなる場合においても聖書の本質の内にあります。それらは聖書の精髄です。

ロザリオは退屈ですか?それは場合によるでしょう。他方では幸いと喜びに満ちた祈りでもあり得ます。その者がいかにしてこれを行うかを知るならば、ロザリオは一つずつ、少しずつ強められる内に成長するマリアへの示しとなるでしょう。結局それは心からのバネの繰り返しとなり、その霊魂の甘美なる歌の如くなるでしょう。

ロザリオは貧弱さに陥った祈りですか?では何が"豊かな祈り"であるのでしょうか?ロザリオはイエズスより与えられたパーテル(主祷文)を行き進みます。アヴェ(天使祝詞)は天使による童貞女への天主の御挨拶です。グロリア(栄唱)は至聖三位一体への賛美です。

あるいは他方、神学の熟考ですか?そうしたものは貧者、老人、謙遜にして単純な者には相応しいものではないでしょう。ロザリオは多くの言葉、言い逃れ、誤った複雑さなく信仰を表現します。それは我々を天主の御旨に委ね、かつ苦難を甘んじ受けるのを助けます。天主はまた神学者を用いられます。しかし彼の聖寵を分配されるために、とりわけ天主の御旨に自身を委ね奉る謙遜なる小さな者達を用いられます。

為すべき別の考察があります。家庭はまず第一に子供達のための宗教的精神と信心の学び舎であるべきです。両親の宗教的な教えをパウロ6世は慎み深く、権威を持ち、置き換える事の出来ないものと言われました。

慎み深いとは、私達を取り囲む世俗主義への信奉とその放任のためです。
権威を持つとは、天主より両親に与えられた使命の一部であるという事です。
置き換える事の出来ないとは、その柔軟な年頃にて宗教への畏敬の傾向と習慣が形成されるという事です。

子供と共に夕べに両親が唱えるロザリオは例えそれが短く適用されたとしても、家庭典礼の形式です。

フランス人のカトリックの作家であるルイス・ヴュイロットが天主に立ち返ったのは、ローマの家族が信仰のうちにロザリオを唱えるのを見たためであると告白したのです。」

 

( 1974年の聖金曜日の説教 "十字架")

「ヨハネの(聖福音)朗読の間、私はあなたと共に御悲しみに満ちて御手を釘付けられて吊るされ、御足を釘付けられて固定された彼を黙想し奉りました。そうして私は彼に向います。私はそれを防ぎ止める事が、全ての騒がしき者を受け流す事が出来ず、私は安楽の内に溺れます。しかしながら、私は彼の弟子であると宣言します。

私の書斎には美しい十字架の御像が掲げてあり、別の十字架は私のポケットに入れて運ぶロザリオの端にあるものです。私は一日に幾度行うかを知りませんが、十字架のしるしを行います。私は毎日祭壇上で十字架の犠牲を表わす聖祭を祝います。これら全てに関わらず、私は十字架を大変恐れるのです。

十字架を見奉りて、私は区別しました。我々を身震いさせない何かがそこにあるのです。例えば激しい苦痛と、しかしそれに耐えるあなたの持つ強さです。あなたは枯渇し息を切らし、渇望させ、尽き果てさせますが、しかし同時にあなたは対者を克服し、有終の美に達するための模擬を持つ、それらの競いです。これらは非常に小さな十字架です。

十字架は横列に固定された梁であり、私の前で道を塞ぐ障害です。私は全ての望みを不条理に塞いで私を止める何かの上を行く事が出来ると考えます。私が正しき望みを重んじると、最初から最後までそれが破壊されるのを見ました。

私は自らの足を地につけ、自らを見出し、現世より自らを切り離される事を望みましたが、私がそれを真に望まぬ時に、栄光なく釘付けにされ、吊るされました。私と表面上共鳴する同様の人々はその適否故に深く潜行して私を笑っています。これは本当の十字架であり、これは心中を傷つけ、霊魂をねじり、唇に自然と叫びを上らせます。"主よ、我これをまことに望み奉らず。主よ、この杯を我より過ぎ去らせ給え!"

イエズスもまたこれを体験されました。ゲッセマネの園において、屈服、絶滅、死去への悲しみを感じられました。彼はまた言われました。"御父よ、この杯を我より過ぎ去らせ給え。"しかしその後、この雄々しさを受け入れられました。"しかしわが思いならずして、御心の成就せんことを。"

兄弟姉妹の皆さん!我々の日々の十字架を担い、認め申し上げ、同様にキリストに少しの強さを願う事を試みましょう。我々の痛み多き旅に何らかのクレネのシモンは我々を助け、御母は悲しみと共に我々を慰め給うでしょう。

とにかく、全ての十字架は過ぎ去るものです。これは道であり、ゴールではなく、十字架なく視界に天国はありません。聖ペトロは書きました。"むしろキリストの苦しみにあずかるほど喜ぶがよい。そはキリストの栄光の現わるるにおいて、福楽に溢れんがためなり。"」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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