「祈りは天国の鍵である。」(聖アウグスチヌス)

祈り・態度について諸聖人・キリスト者の言葉

 

私達の言葉は全て、内面から湧き出てくるものでないなら無益です。キリストの光を与えない言葉は闇を増すばかりです。(福者マザーテレサ)

「祈りとは天主を礼拝し、天主の御恩に感謝し、罪の赦しを願い、恵みを請い求めるために心を天主に上げて、天主と語り合うことです。」(カトリック要理)

「私達は「お祈り」という言葉を耳にすると、すぐ嫌な務めだと思いがちです。それは私達が、真にお祈りの価値を知らないからなのです。お祈りを終わってから反省してみますと、お祈りの間には多くのくだらないことを考えて、ほとんど真面目にお祈りしていなかったことに気づく時がよくあります。

なぜ私達は、お祈りを大切にし、尊重しないのでしょうか。肉体の生命を保つには食べ物が必要です。呼吸をするには空気がいります。それと同じく、霊魂の生命の糧は祈りなのです。お祈りを怠ってどうして心の糧を得ることができましょうか。心の糧なくしては霊魂はその呼吸を失ってしまいます。私達がお祈りを怠りがちになると、もう私達の霊的進歩はありません。祈りによってこそ、私達は神様の方へ至ることが出来るのですから。

祈りをしないならば、必ず無益なものを求め、亡びゆく被造物に愛着するようになります。これに反して、祈る人は、その祈りによって新しい生活を与えられ、よりやさしく神様と一致しえるのです。 」(カシアノ・テティヒ)

聖書は「絶えず祈れ」と言っています。十字架の聖パウロは、「祈りを怠る時、我らは滅びの大道に入る」と書きました。
アレクシス・カレル博士は「もしあなたが祈りの習慣をつけるなら、あなたの人生は深い変化を受けるだろう」と書きました。科学者として、彼は神との会話はすべての技術の中の技術であるとして、人間最高の行為である祈りに心を向けました。(ピエタ小冊子)

私達は、自分で祈っていると考ているとしても、本当は聖霊の働きかけ、その導きのもとに祈っている、と教皇様は仰っています。

「あらゆる時、あらゆる場所が祈りのための時であり、場所です。」(シエナの聖カタリナ)

「…祈ることを愛しなさい。日中たびたび祈りの必要を感ずるようでありなさい。そして実際祈るよう努めなさい。祈りは心を広くし、神御自身というおくりものを受け入れることが出来るようにしてくれます。願い、求めなさい。そうすれば、あなたの心は大きくなって、神を自分のものとしてお受けし、神から離れることがなくなるほどになるでしょう。…」(マザーテレサのことば:神さまへのおくりもの)

「あなたの涙は天使達によって集められ、金のカリスの中に置かれました。あなたが天主の御前に出る時、あなたはそれを見つけるでしょう。」(聖ピオ神父がある泣いている信者に対して)

「絶え間ない布教に私を駆り立てる以外の考えは、大罪のうちに死に地獄の深奥に陥ることを永久に宣告された霊魂らの多数の考えです…もしあなたが穴や崖に陥る盲人を見たならば、その人に警告して頂けませんか?聞いて下さい。私は同じことをします…。」(聖アントニオ マリア クラレット)

「祈りは救いを得るのに必要です。それは、キリストが教えられた様に、天主は祈る人に救いのために必要な恩恵をお与えになるからです。」「自分のためばかりではなく、親、兄弟、隣人(反対者も含めて)のために祈るのは天主の御旨にかないます。特に天主の御国の発展のために祈ることは、信者の重大な務めです。」(カトリック要理)

「祈りの人にならなくては、直接の使徒的な務めに取り組むことは出来ません。キリストが御父と一つであつことを意識しておられたように、私達もキリストと一体であることを意識していなければなりません。」(福者マザーテレサ)

「高慢に論じ、また反論する人は誰に向かっても常にドアの外に立つことになるでしょう。謙遜の主なるキリストは謙遜な者へのみ主の真実を明示され、かつ高慢な者より主御自身が隠されます。」(聖ヴィンセント・フェラー)

「まことのキリスト教的生き方を送り、純粋な心で己の霊魂を救い、聖人達の足跡を辿り、どんなことがあっても絶対に大罪には陥るまいと願うなら、またサタンの罠を破り、火炎を発する彼の投げ矢を逸らせたいなら、主御自らが御教えになり、皆にもそうするように命令なさったように常に祈らねばなりません。」(聖ルイ・デ・モンフォール)

「善を行う今の機会を逃さぬように。」(聖フランシスコ・サレジオ)

「祈りが私のただ一つの武器です。」(聖ベルナデッタ)

「人々は私に尋ねます。『何がアメリカを変え、また世界を救いますか?』私の答えは祈りです。私達が必要と致しますのは、祈りの聖時間において御聖体中のイエズスの御前に全ての教区民が来ることです。」(福者カルカッタのマザーテレサ)

「思いは全て事実であり、力である。この力は肉体そのものにも働きかける。思いを強め、積極的になれ。そうすれば、肉体は決して衰えないだろう。わたくしたちのうちにあるこの見えない力は、祈りによって生かされ、祈りの力によって高められる。このような内面的な祈りが、言葉に移される時、その力は増す。ここに声の祈りの徳がある。

しかしそれはどこまでも祈りでなければならない。暗唱であってはならない。本当の声の祈りとは、心によって、霊感によって唱える祈りだ。といっても、誰でもが詩人や雄弁家であるわけではない。わたくしたちは聖人がたの霊感によりなる祈りの本や、教会の典文の助けをかりる。

真の祈り、神の御心にかなう真の心の祈りとは、このようなものだ。聖マリアの小聖務日祷は、ロザリオと共に、信心深い人なら誰でも唱えるはずの祈りであり、心の祈りである。典文を使ってする祈りを愛しよう。」(アルバン・デ・チガラ)

「謙遜で愛情深い人は、皆から愛される。天主からも人からも。」(聖ヨハネ・ボスコ)

「愛の行い、それは天主の愛の火が我々の心中に燃えるようにして置かれる燃料である。」(聖アルフォンソ・リゴリオ)

「祈りは常に道を見失わない。」(アルスの主任司祭 聖ヴィアンネ)

「天主は天使達においてさえも混乱を御覧になられるのである。天主は私においても御覧になられるに違いないのである。」(聖ピオ神父)

「この世を罰するのに充分大きな罰は存在しない。」(我らの主より聖ブリジッタへ)

「偉大な思いは心の底から出てくるものであり、行いを生み出すのはその思いに他ならない。神秘主義はただの夢想に過ぎないと非難される場合が非常に多い。しかし"イミタチオ"の神秘主義は、行いである。なぜなら、行いこそ完徳に他ならないからである。」(アルバン・デ・チガラ)

「誰かにいやしめられる事はある。が、ただ自ら進んでする事によってだけ謙遜を実行出来る。だから謙遜とは天主との関係を考えて、自分のいやしさを感じる事なのだ。マリアは御自分を"主のいやしい使い女"と宣言なさった。しかしマリアは救い主の御母、天地の元后なのである。」(アルバン・デ・チガラ)

「祈りとは我々が天主の御心に入るために通る王門である。」(尊者グラナダのルイーズ)

「祈りとは天主との一致である。」(聖ヴィアンネ)

「我らの肉身が滋養無く生きる事が出来ないのと同様に、我らの霊魂は祈りなくして霊性を保ち生きる事は出来ないのである。」(聖アウグスチヌス)

<Raccolta 70 祈祷>

聖ピオ5世の1568年7月9日の教書Quod a nobisによりて与えられしもの

T.義務による範囲内のローマの聖務日課書の朱書における規定されし日に、祝せられた童貞への祈祷を信心深く唱え奉る全ての信心深き者に100日の免償。

U.1574年4月5日の別の教書Superni omnipotentisによりて、義務の信心以外からこの祈祷を唱え奉る全ての信心深き者に50日の免償。

 

 

 

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