アルスの主任司祭聖ヴィアンネ

聖寵

「我らは自身の強さで罪を避け、徳を修める事が出来るであろうか?
いいや、わが子よ、天主の聖寵なくして我らは為し得ないのである。
それは信条であり、イエズス・キリストが御自ら我らに教え給うたのである。

さて、公教会の御考えと、諸聖人の彼女(公教会)に対する御考えは、聖寵が我らに不可欠として、それなしに我らは信ずる事も、望む事も、愛する事も、我らの罪を償う事も出来ないというものである。

偽りなき敬虔の聖パウロは、彼の役目でもって我らに保証したのであり、天国のために功徳を得させるための方法であるイエズスの御名を発し奉る事さえ、自己によっては出来ぬのである。
太陽によって肥沃にされぬ限り地上に何も生える事のない様に、我らは善なる天主の聖寵なく、善を為す事は出来ぬのである。

わが子よ、聖寵とは我らを善へと導く不可思議なる御助けである。
例えば、聖堂に入堂して御教えを聴く罪人がいるとしよう。
説教は地獄について、天主の審判の厳格さを語り、彼は内側で回心を訴えられているのを感ずる。
この内側の衝撃は、いわゆる聖寵である。
確かめなさい、わが子よ、手をとってその罪人を連れ、彼に歩く事が教えられるのを望み給う善なる天主である。

我らは子供の如くありて、いかにして天への道を歩むかを知らぬのである。
我らはよろめき、常に天主の御支えの御用意がなければ、我らは転倒するのである。」

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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