聖母の被昇天

 

マリアは御亡くなりになられ給うたのである。
しかしマリアがいかにして亡くなり得ようか?
マリアは全ての被造物より引き離されたのである。
マリアはその御生涯の間常にその至聖なる御心を燃やした、その天主への愛によって費やされて御亡くなりになったのである。
ああ聖なる御母よ、御身は既に地上を離れられ給うた。
この涙の谷に残る惨めなるさすらい人、地獄に我らを引きずり込まんとす非常に多くの敵共とたたかう我らを忘れ給うな。

ああ御身の尊き死の御功徳によりて、我らのために聖なる忍耐、天主への愛、罪の赦し、地上的事物よりの分離を得させ給うに喜び給いて
恵み深くあらんことを。
また臨終の時を迎えるにあたりては、御身の祈願もちて我らを助け給い、楽園においては御足に接吻し奉るを得させ給わんことを。
(祝日の黙想 より)

 

<ヴィラム著 マリア より>

全世界で八月十五日には、マリア被昇天祭が祝われる。
この祝日の名を奉じて、マリア被昇天聖堂と名乗る多くの教会堂でもこの信念が顕示されているし、又マリアが天使の隊列に囲まれて、
彼女を天に昇らせるキリストを仰ぎ見つつ昇天する場面を描く聖画も多い。
救い主で、在天の子の前にマリアのからだもある事は、多くの祈りの中に暗黙裡に前提とされている。
ロザリオの祈りの前後二玄義(「処女を天に昇らせ、天において王冠をかぶせられたもの…」)を見ても、
使徒の普遍的信念をこの祈だけで音頭がとれるくらいな地位を占めている。

マリア被昇天の信念は、ダマスコの聖ヨハネ(六七五ー七四九)の時以来とぎれない文献上の証言につながれている。
被昇天祭にこのヨハネのした説教が未だ残されている。
「産児においても完全に所女性を守ったマリアは、その死後もからだをあらゆる腐敗から守り通した。
創造主を体内に宿した彼女は、天の花嫁の室に住むはずである。
十字架上の子を見て、自分の胸も、産みの苦しみをしなかっただけ苦しみの剣で貫かれた彼女は、この子が今や父の右に座しているのを
見たはずである。
神の母は聖子に相応しい所に着座し、あらゆる被造物から、神の母、神の侍女として崇敬されるべき方である。」

殆ど同じ頃、コンスタンチノペルのゲルマヌス司教(七三三年没)は、マリア被昇天について言っている。
「聖書に云われているように、マリアの姿は美しく、その処女躰は全く神聖・貞潔な神の住まいである。
そこでその肉体も、ちりと朽ち果てる事なく、その人体も不朽のより高次の生命にと変化される。
それは生命の充満に溢れ、不死で生々とした栄光に輝けるものである。」

 

<祈り>

「聖母マリア、神はあなたに御子の母なる特別な恵みを授けられました。
あなたの被昇天の特権は、福音を生き、日々懸命に努力する私達に希望を与えます。
私達があなたの聖なる見本の生きた写しとなりますように、私達と共にお祈り下さい。
私達がいつの日か、主イエズスの御復活を共有するに至りますように。 アーメン。」

 

<聖母の被昇天のチャプレット>

このチャプレットは、被昇天のメダイと十字架、一連は3つの小珠からなる三連で構成されています。
もし専用のチャプレットを御持ちでなければ一般のロザリオを代用されて構わないと思います。

まず始めに(メダイで)次の祈りを唱えます。
「ああ御身の子なる主イエズス・キリストの御復活によりて世に喜びを送り出し給いし天主、主の御母なる童貞マリアの
御とりなしによりて、我らの主キリストによりて永遠の生命の喜びを得られんことを、我らは御身にこいねがい奉る。アーメン。」

各小珠で「主祷文」「天使祝詞」「栄唱」を各度ずつ、3連祈ります。

 

<ヴィラム著 マリア より>

マリアの被昇天の教理宣言の丁度百年前の一八九四年、枢機卿ニューマンは説教の中で、マリアのからだはなぜ腐敗を免れ、
栄光の霊で昇天させられたのか、マリアの死を人はどのように報ずべきかについて、次のように述べている。

「マリアはあれほど奇跡的な生涯を送ったのであるから、天に昇せられ、キリスト再臨まで墓中に待つには及ばない事は、適宜な処置である。
彼女がその生涯に相応しからぬ、余人と同じ死を遂げたとすれば、これこそむしろ大きな奇跡だと、私は思う。
神の子の人体構成をしてくれた母に対する神の感謝は、マリアのからだの血肉(その胎内にこそ神の子が宿ったのに)が墓で朽ち果てさせる事で
示されるとは、誰も考えないであろう。
又この罪汚れなき処女的からだがが罪人と同じ死に方をするとも考えられないであろう。
原罪の汚れなきマリアは、なぜ原罪ののろいをかけられるのか。
マリアが死んだのは、我らの救い主すら死んだからである。
マリアはあれほど苦しみ、そして死んだのは、彼女がこの世のものであり、死苦を免れない状況の下で暮らしていたからなのである。

マリアが余人のように死んだとしても、その意味は違っている。
彼女をそうあらしめたその子の功徳、彼女の罪を除いてくれ、彼女を光で満たし、彼女のからだのしみを取り除いてくれたキリストの恵みによって、
彼女は病気、その他人体を弱めくさらすものから庇護されたのである。
彼女において原罪は、感覚をマヒさせたり、からだを消耗させたり、老衰させたりして死路をたどらせたのではない。

マリアは死んだが、その死は単なる一事実に過ぎず、仕上げ作業ではなく、この事実が終わればもうなくなってしまう。
彼女は生きんがために死んだのであり、その死は一種の形式に過ぎず、自身のため、又は罪の結果として死んだのではない。
彼女が死んだのは、自分の境遇に甘んじ、神に栄光を帰し、その子のした事をするためではなくて、またその子・」救い主のように
特殊の目的のために苦しむためでもない。
又殉教者の死を遂げたのでもない。
彼女の殉教は彼女の生命であったから。
又贖罪のために死んだのでもない。
人間には罪の償いは出来ないから。
ただ一人イエズスのみにそれは出来、しかも万人のために、償ってくれたのである。
そうではなくて、彼女の経歴を果たし、その王冠を頂くために死んだわけである。

この故にマリアはひそかに死んでいった。
この世のため死んだ者にはこの世に注視されつつ死ぬのが、相応しい。
大きな犠牲死には、人目につく光のように昇天するのが、相応しい。

しかし楽園のユリ、人目を避けて暮らしたマリアは、園のかげで死ぬのが相応しい。
彼女の別れは、人目につかない。
教会は相変わらず、説教し、教え導くその職責を果たしており、迫害にもあい、各地に逃れ、殉教者も出し、勝利した事もある。
とうとう神の母がもう地上にはいないという噂が広まる。
巡礼はここかしこに行き、マリアの没後の遺物を探したが、何も見つからなかった。」

 

<祈りU>

「天の御父よ、よろずの被造物は、御身より来たる一切の生命と一切の聖性ゆえに、相応しく御身を称え奉らん。
御身の英知ある御計画のうちに、彼女の御胎内にキリストを宿し給い、天つ御国に彼と共に在し給う栄光と共にその御霊肉を上げ給いたれば、
御身の聖性の映しなる彼女の模範に我らを続かしめ、終わりなき愛と賛美の彼女の歌に一致せしめ給え。
これを我らの主キリストによりて願い奉る。アーメン。」

 

 

 

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