「天国においてのみ、我々はミサ聖祭を祈ることにある幸福を理解します。」(聖ヴィアンネ)
「ミサ聖祭は主イエズス・キリストが十字架上にかち得給うた、無量の功徳を人に施すために、
御自ら定め給うた至聖なるいけにえである。
それ故、天主の最もよみし給う最上の祈りである。五官には感知せられないが、ミサ聖祭において主イエズス・キリストは
パンとぶどう酒との形色のもとに実際に祭壇にて降臨し給い、世のいけにえとなり、人々の霊魂の糧となり給うのである。
それ故カルワリオにて主の御苦難を仰ぎ見給うた聖母の御心にならい、聖なる祭を祭壇の司祭と一致して公教会と共に
捧げなければならない。」
「永遠の御父よ、我らへりくだりて御身に我らが貧しき現存と、世の初めより世の終わりまでの人類すべての現存を、
かつて祈られ、今後祈らるべきすべてのミサにおいて捧げ奉る。
我ら御身に、すべての苦痛、苦難、祈り、犠牲、生活の喜びとくつろぎを、ここ地上における我らが親愛なる主イエズスの
それらと共に捧げ奉る。
願わくはキリストのいと尊き御血、すべての主の御血のと御傷と御苦しみとが、マリアの汚れなき聖心によりて我らを
救い給わんことを。 アーメン。」(この祈りは毎日祈り、また人々に知らせるべきであると言われています)
「親愛なる聖フィロメナ、神への完全なる愛に導く、かの心と精神の清さを我らのために祈り求め給え。」
・我々が熱愛を持って拝聴する各ミサに対し、我らの主は臨終の時、我々を慰める聖人を一人ずつ送り給う。(主の聖大ゲルトルードへの啓示)
・聖痕を受けられた司祭、聖ピオ神父は”世界は太陽なしで存在する方が、ミサなしで存在するより
容易であろう”と語った。
・偉大な教会博士、聖アンセルモは、ある人自身のために存命中捧げられた唯一のミサが、
同じ意図で死後に捧げられる1000回のミサよりも価値があると宣言する。
ポート・モーリスの聖レオナルドも、死の前の1回のミサは、死後の多くのミサよりも有益であろうと
言ってこの陳述を支持している。
「聖なるミサは、もし人々がそれを彼らの存命中に捧げるのであれば、死後彼らの霊魂の解放のために
捧げてもらうよりも大きな利益があるであろう。」(教皇ベネディクト15世)
・かつて聖テレジアは、神の善良さに圧倒されて我らの主に対し、
「私はどのようにあなたに感謝すればよいでしょうか。」と尋ねた。
主はそれに対し、「ミサに1回出席しなさい。」と答えられた。
・聖母マリアはかつて聖母の忠実なしもべなるアレンに対し、次のようにお話になられた。
「我が子はミサの聖なる犠牲に参列する人々を、もし必要であるならば彼らがミサを拝聴した回数だけ、
彼らのために御子御自身が死ぬことを望む程に愛されます。」
ある晩、トレンティノの聖ニコラスは亡くなったオジモのペレグリノ修道士の霊魂を見ました。
死者は直ちに彼自身と煉獄の霊魂のためにミサ聖祭を執り行うように頼みました。
しかし聖人はミサ聖祭は司祭の順番があり直ちに出来ないことを伝えました。
その亡くなった修道士は聖人を煉獄へと導きました。
聖ニコラスはそれらの霊魂が苦しむ恐ろしい苦痛を見てぎょっとしました。
聖人は戻ると直ちに上長のもとに行きペレグリノ修道士と貧しい霊魂達のためにミサ聖祭を執り行う許可を願いました。
許可を得た後聖人は彼らのために聖祭を捧げました。聖祭は最も力強くまた彼らに最も有益な祈願です。
ある朝ピエトレルチナの聖ピオ神父に対し一人の修道士がミサ聖祭中に亡くなった彼の父親のための意向を求めました。
聖ピオ神父は代わりに聖祭がその父親の霊魂のために捧げられることを望みました。
聖祭の後ピオ神父は直ちに修道士を呼び、「今朝あなたの父は楽園に入った。」と伝えました。
修道士は驚き、幸せではありましたが、叫ばざるを得ませんでした。
「しかしピオ神父様、私の父は30年前に亡くなったのです!」聖ピオ神父は厳粛に答えられました。
「わが息子よ、天主の御前に人は全ての償いをしなければならない!」
一人の聖人は聖祭が煉獄の霊魂のために唱えられた後に、修道院の中にあって自身の姉が煉獄より解放されたのを
見ました。
その時聖マチルダは主と御母マリア、天使の軍勢が祭壇を取り囲まれ、彼らの御功徳を聖祭中に記念された煉獄の
霊魂達のために捧げられているのが見えた、と言いました。
また聖人は幾人かの霊魂が自ら聖祭を助け、その後直ちに高く飛翔し天国に入ったと言いました。
「聖祭は十字架上のイエズスの御死去と同様に尊きものである。」(聖トマス・アクイナス)
アビラの聖テレジアは書かれました。
「聖祭なくして、我々は一体どうなるというのでしょうか?
天主の御腕を引き止められなければ、我々全ては滅びるでありましょう。」
アシジの聖フランシスコは言います。
「人々は畏敬に身を震わせるべきです。世界は揺り動かされるに違いありません。
天主の御子が司祭の手において祭壇上に現れ給う時、天の全てはいっそう深く揺り動かされるに違いありません。」
聖エイマルドは言いました。「ああ、もし煉獄の霊魂らがこの世に戻り来るとしても、彼らは一つのミサ聖祭を拝聴する事を
与えられないであろう!」
「もしあなた自身が聖なる犠牲のその価値、その実りの重要性を充分に理解するなら、
それにあずからずに一日を過ごしたいとは思わないであろう。」
聖アルフォンソ・リゴリオは述べられました。「天主御自身、ミサ聖祭より聖にして偉大な行いを生む事が出来ません。」
我らの御母は聖ブリジッタに伝えられました。
「ミサ聖祭に附属するもの全てが非常に清らかでなければ、祝われるべきではありません。
そのようにして、潔白と規律の完全なる完成によって信心と敬いの念が奮い起こされるのです。」
聖マチルダは一度幻視の中で、貧しく騒がしくあった平信徒の霊魂が驚くべき輝きのローブを着せられたのを見ました。
その霊魂は注意深く可能な限り数多くのミサ聖祭に奉仕する事に励み、熱心であった者でした。
聖グレゴリオは次の話しを伝えられました。
ある一人の貧しい婦人が、蛮族に捕らえられ奴隷となった夫がすでにこの世を去ったものと考え、
夫の霊魂のために毎週月曜日にミサ聖祭を捧げました。
これらのミサ聖祭は夫を脚と腕の束縛の鎖から解放しました。
ミサ聖祭が捧げられる一方、夫は束縛から解放され、自身の帰宅を告知しました。
ミサ聖祭が物質的な束縛に対してさえ解放が可能なら、我々の霊魂の罪の縛めを解き放つのにどれほど
力強いものでありましょうか!
聖ヴィアンネは言われました。
「全ての善行は一つのミサ聖祭の価値を持つ事が出来ないのである。
なぜならそれらは人間の業であり、ミサ聖祭は天主の御業であるからである。」
「あなたが聖祭を拝聴し奉る時、カルワリオにおけし祝せられた童貞マリアの如き精神と
同じ枠組みとなっているであろうか?
なぜならこれは同じ天主にして、同じ犠牲であるからである。」
「一週のうちにしばしば聖祭に行く者は、信仰の不足ゆえにそれを構わざる者よりも、彼らの働きは
非常により良きものである。」
聖ヨハネ・クリゾストモは言われました。
「我々は苦悩の内にあるであろうか?我々はミサ聖祭にあらゆる慰めを見出すのである。
我々は誘惑されているであろうか?ミサ聖祭を拝聴しよう。
我々はそこに悪魔を克服する方法を見出すのである。」
ポートモリスの聖レオナルドは述べられました。
「もしミサ聖祭が存在しなければ、今頃は世の不正の重みによって世界は深淵に沈み込んでいたであろうと
信ずるのである。」
フランスの聖ルイ9世は一日の間に幾度かミサ聖祭に与りました。
ある大臣がそれに費やされる時間のために苦言を呈すると、聖人は答えられました。
「もし私が狩猟の様な娯楽に二倍の時間を過ごすならば、誰もいかなる反対もしないであろう。」
聖トマス・アクイナスは言われました。
「ミサ聖祭の内に全き実り、全き聖寵、全き大なる宝が包含され、十字架上の御血の犠牲の内に、
天主の御子が彼の配偶者なる公教会に豊かに注ぎ給うのであり、それは限りなき功徳にして、限りなき聖寵、
限りなき宝である。」
貧しい農夫であった聖イシドロは毎日ミサ聖祭に与る事を欠かしませんでした。
天主御自身がそれをいかに喜ばれているかを聖人に示すために、聖人の畑を密かに聖なる天使達に耕させました。
「ミサ聖祭を拝聴するために行く歩数は全て聖なる天使達に数えられるのである。
そしてその者はこの生涯と永遠の中で天主より高き報いを与えられるであろう。」(聖アウグスチヌス)
聖デニスは言われました。
「御聖体の秘蹟は霊魂の聖化に対し、聖寵の他の霊的手段よりもはるかに力強きものである。」
聖ボナヴェンツーラは言われました。
「ミサ聖祭の驚異は天上の星数と、地上の海岸の砂数と同じである。」
聖ブリジッタは伝えます。
「ある日司祭が聖祭を祝っておりました時、私は奉納の際において、天の御国の全ての御力がいかにして
動かされますかを見奉りました。
私は同時にいとも調和していとも甘美なる天の調べをも耳に致しました。
数え切れぬ天使らが下り給いて、人間の理解や想像、描写や舌も能わぬ合唱を致しました。
彼らは司祭を見て囲み、敬虔なる畏怖をもって頭を垂れました。
悪魔共は震え始めて非常に大なる混乱と恐れのうちに逃走しました。」
聖ベルナルドは、ローマの聖パウロ聖堂で聖祭が挙行されし間、星の道がどこまでも天の御国にかかるのを幻視しました。
数多の天使がそれを昇り降りし、世の全ての祭壇上で司祭によって新たにされしイエズスの犠牲によって解放された霊魂を
煉獄より楽園へと運んで行きました。
聖イエロニモは、敬虔に祝われし各聖祭によって多くの霊魂が煉獄を離れて天の御国に飛び立つと書きました。
聖トマス・アクイナスは、イエズスのただ一滴の御血のしずくが尽きざる功徳を有し、あらゆる御怒りより全宇宙を救う事を
得られると教えました。
聖フベルトは聖祭を祝う時、楽園の諸天使を見ました。
聖レオナルドは書きました。
「しかり、今日はいと悲しく、数多の者が聖祭に対してほんの少しの価値しか持たず、行くのを延ばすか、
若干の全く些細で取るに足らない現世的な楽しみのために行かぬのである。」
聖ペトロ・ユリアノは言います。
「ああキリスト信者よ、聖祭は宗教におけしいと聖なる行いであるを知れ。
あなたはこれを可能な限りしばしば信心深く助ける以上に、霊魂に益し、天主に光栄を帰し奉る事は出来ぬのである。」
ある聖人は修院において、一つの聖祭の後に幾人かの修女らの霊魂が煉獄より解放されたのを見ました。
それらの時に聖マチルダは、主と我らの御母と天使の軍団が祭壇を取り囲み、
彼らの功徳を聖祭を捧げられた貧しき霊魂のために捧げられているのを見ました。
聖女はまた、幾人かのおのれの聖祭を助くる特権を与えられし霊魂を見、その霊魂はその後直ちに
天に昇って行きました。
1.ミサ聖祭はカリワリオの継続である。
2.どのミサ聖祭も全て我らの主の御復活、御受難、御死去の犠牲と同じ価値を持つ。
3.ミサ聖祭はあなたの罪の最も強力な償いである。
4.あなたが拝聴したミサ聖祭は、あなたの臨終の時の最大の慰めとなるであろう。
5.全てのミサ聖祭は審判の際にあなたに伴い、あなたのために赦しを嘆願するであろう。
6.ミサ聖祭においてあなたの熱心さに応じて多かれ少なかれあなたの罪に対するこの世の罰を減す事が出来る。
7.敬虔にミサ聖祭にあずかる事により、あなたは我らの主の聖なる御人性に最大の尊敬を表す事になる。
8.主はあなたの過失と怠慢の多くを償い給う。
9.主はあなたが告白しなかった小罪を赦し給う。
10.あなたは煉獄の霊魂達に可能な最大の助けを与える事になる。
11.生きている間に拝聴した一つのミサ聖祭は、あなたの死後にあなたの為に拝聴される多くのミサ聖祭よりも
より有益である。
12.あなたはさもなければ陥ったかもしれない危険や不幸から守られる。あなたの煉獄の期間は短縮される。
13.各ミサ聖祭はあなたのために天国のより高い光栄を勝ち取る。
14.あなたは我らの主が天国において裁可され給う司祭の祝福を受ける。
15.あなたはこの敬愛すべき犠牲に尊敬満ちた畏れをもってかしずく天使の大軍の中でひざまずく事になる。
16.あなたはこの世の物事においても祝福される。
「我ふさわしからざる罪人は、このパンの御身のまことの御肉への変化、我らの終わりなき、
いとも益なるいこいがためのぶどう酒の御血と水への変化の、御身の慈悲にして偉大なる驚くべき
御業によりて御身に祈り奉る。
御身はわが意思を唯一御身のものへと全く変じ給うゆえに、わが全生涯、全行いは思い、言葉、
行いのうちに御身を喜ばせ奉らん。」(スウェーデンの聖ブリジッタ)
1.天主への最高の賛美の形式なる事。
2.彼の全祝福に対する感謝なる事。
3.我らの罪の全ての償いを得る事。
4.我らの望む全ての天の祝福を得る事。
5.煉獄より霊魂を解放し、更に我らのそこで過ごす時間を短縮する事。
6.全ての霊肉の危難よりの保護を得る事。
7.臨終の時における慰めがため、その時において、それらの記念が大いなる慰めとなる事。
8.天主の義の王座における我らのとりなしとなる事。
9.天主の祝福を引き降ろすゆえに、従って毎日、もしくはしばしば可能な限りミサ聖祭を支える
べきである。
10.よりよくキリストの御受難の荘厳を理解させ、従って彼に対する愛をいや増す事。
1918年のチショール師によって書かれた本にある話しです。
特別に愛していた息子を亡くしたある母親が、悲しみに沈み、日夜彼を思って泣いていました。
ある日彼女は幻視を得ました。
彼女は美しい少年達の一行を見ました。彼らは全員が輝く衣服を装っており、喜びと喜悦がありました。
彼らが通り過ぎたので、彼女は少年達の中に息子がいるかもしれないと思いました。
しかし息子はいませんでした。
それからかなり離れたところで、少年達の一行に息子が続いているのをみました。
彼は大変な重荷を運んでいるように見えました。
彼女はなぜそれほど悲しく、また疲れているのかと息子に尋ねると、彼は答えました。
「お母さん、御覧下さい。
この私が運ぶ重荷は、あなたが私のために流した涙です、
この涙は私に功徳をもたらしませんでした。
それどころか、これらは私が他の者達の福楽に至らせないないようにしました。
もし貴女が泣かなければならないのならば、天主の聖なる御旨への従いの中で泣いて下さい。
私はあなたにお願いします。
ミサ聖祭における聖なる犠牲を私のために捧げてくれるならば、この重荷は私より取り除かれるでしょう。」
一.ミサ聖祭において、天主の御子は再び人となり給う。
しかして全ての聖祭においては、よろずの限りなき功徳と共に御受肉の途方もなき神秘が存し、
天主の御子が祝せられた童貞マリアの御胎内において最初に御肉身を取られし時の、まことの再現である。
聖アウグスチノ曰く、「更に一度人となり給うキリストを渡されし司祭の権威とは、何と崇高なりや!」
二.ミサ聖祭はキリストの御誕生である。
彼はまことに聖祭が唱えられる毎に、ベツレヘムにて御誕生になりし如く、祭壇上で御生まれになる。
聖ヨハネ・ダマセノ曰く、「もし何者かが、パンがいかにしてイエズス・キリストの御肉身に変化する事を知りたいと
望むならば、私はその者に教えよう。
聖霊が司祭の背後にありて、聖霊が祝せられた童貞に働きかけられし如く、司祭に働きかけられるのである。」
聖ボナヴェンツーラ曰く、「天主が祭壇上に降り給う時は、彼が祝せられた童貞マリアの御胎内において人となり給いし
最初の時に劣らぬのである。」
三.ミサ聖祭は、カルワリオの犠牲と同じである。
天主は受難の金曜日に最初に死去された。
これはカルワリオの限りなき価値と同様であり、人々に同じいと尊き聖寵を下し給うものである。
聖祭はカルワリオの記念の模倣にあらず、同じ犠牲であり、ただ外観がカルワリオと異なるだけで、
イエズスは再び我らのために御血を流し給うのである。
聖アウグスチノ曰く、「聖祭において、キリストの御血は新たに罪人のために流されるのである。」
四.地上にありしものよりも、天にありしものよりも、一つの聖祭の方が、これ自体が天主の更なる栄光と
我らのために大いなる益を得させるのである。
五.ミサ聖祭によって我らは天主に大いなる価値、天主が望み得るいと大いなる栄光をを捧げる。
我らに授けられし全ての益に対し、我らはいと完全なる感謝を捧げる。
我らのいとも厳格なる償いよりも、更に我らの過ちを償う事が出来る。
六.我らは罪人の回心のために、聖祭の犠牲を捧げるよりも優れたものを捧げる事は出来ない。
もし母親が、誤った道に進みし子らのために聖祭を拝聴し祈るならば、また妻が夫のために拝聴するならば、
彼らの家庭は幸いとなるであろう。
七.祈りなく犠牲なければ、いかに熱心であろうとも聖祭で煉獄の聖なる霊魂を助ける事は出来ぬのである。
ああ、煉獄にありし霊魂を思おう。
彼らの中には、我らの愛する父母や友人達がいる事であろう。
彼らのために聖祭を拝聴する事により、我らは彼らをいとも容易に助け、我らがいとも効果的に彼らをひどき苦しみより
救い得るのである。
<ある貧しい農夫の話し>
ある貧しい農夫は、何年間も毎日聖祭を拝聴していました。
地面が雪に覆われたある寒い日の朝、聖堂に行くための道が見えなくなってしまいました。
ちょうど自分の後ろから足音が聞こえてきたので、道を尋ねようとして後ろを振り返ると、かごに美しく、素晴らしい香りを放つ薔薇を一杯に
詰め込めんで運んでいる自分の守護の天使の姿を見ました。
「見なさい」守護の天使は言いました。
「これらの薔薇は、あなたが聖祭に行くそれぞれの歩みに表される。
それぞれの薔薇はまた、天つ御国においてあなたを待ち受けている栄光の報いをも表しているのである。
しかしながら、聖祭そのものよりあなたが得られる功徳はより大きく、遠く遠く及ばぬものである。」