公教会における父性

 

L・J・スーネンス著 A・デルコル訳

NIHIL OBSTAT QUOMINUS

IMPRIMATUR

195937日 東京大司教認可

 

<教皇制度における父性>

 

一般に階級制度の教会は、格式のある幹部と規律を備えた管理施設のように考え過ぎて、世の社会団体や会社に必須の、いわゆる組織の中にあって、これを生かす超自然的めぐみの実在を忘れがちである。

私達が、「聖なる母である教会」を愛し、その母性---泉となるマリアの母性のように、親しく神の父性に参与する母性---の奥義を見出すのに、マリアほど援助を与える事のできる者はない。

私達は信仰に照らされて、教会の最高のかしらを、単に教皇、つまり「鍵の権利」を手にするものとしてではなく、「父」、「聖なる父」(Sanctus Pater)として考えるようになる。
普通に用いられる「パパさま」という用語は、周知の通り「おとうさん」という意味であり、他の全ての特徴の泉となる、教皇の「父性」を思い起こさせる。

パパさまの前に、信者は従うしもべではなく、まず子供である。
ぱぱさまの手に接吻する時、それは公式の礼儀作法に留まらず、篤い考心を示すのである。
また彼の権威の前にひざまずくのも、教皇の主位権が、奉仕と愛に他ならない事を認めているからである。
パパさまは第一に、全ての信者の「共同の父」であり、彼らに御言葉の糧と生命の秘蹟を分配する者である。

聖ペトロの大聖堂の円天井には、全ての信者にとってローマは何を意味するかを示した文字が刻まれている、
Hinc unitas sacerdotii exoritur (司祭職の一致はここから湧き出る)。

しかしこれを、「地上における最高の父性はここからはじまる」と言い換えてもよいだろう。

マリアは人々の霊魂の中にイエズス・キリストを生み、成長させる使命を頂いて、地上における最高の父性を可能にし、教会の地上におけるかしらと、教会の中に多くの人々を恵みのうちに生み、これに光と生命とをわけ与える事も可能にしたのである。

 

<司教における父性>

 

この父性の奥義は、全教会のかしらであるローマの司教、パパさまのみでなく、聖霊から教会の世話を分担的に任された、全ての司教にも見出されるのである。

「あなた達に、キリストにおける守役が一万人あっても、多くの父を持っているはずはない。
実に福音によって、あなた達をキリスト・イエズスにおいて生んだのは、私である」(コリント前4・15)。

全ての司教は、聖パウロの言葉を自分の言葉として、その所属司祭や信者達に向ける事が出来る。

アンティオキアの聖イグナチオ司教は、次のように明記している。
「あなた達が司教に完全な尊敬を示さねばならないのは、彼のうちにある父なる神の権利に対してである。」
また他の箇所で彼は、司教を「御父の写し」と呼んでいる。
教会は、司教達の生活法則をこの考えに基づいて決定する。
「彼ら(=司教達)は、霊魂の牧者であり、その群を力によって支配する事なく、わが子、わが兄弟として愛し導かねばならないと銘記すべきである」と。

世間は司教を教会の「知事」、つまり管轄地区の法や勅令を決定し、その地区の利益をはかる一幹部のように考えがちである。
また教会の反対者達は、司教を個人的な特徴の面から判断し、しばしば政治的な観点から一方的に司教の活躍を解釈する。

神を理解しない世間---この面から言えば、多くのキリスト信者も、不幸にして世間に近いものであるが---は、司教の心髄であるこの霊的父性を知らない。
司教は管轄する信者の数が多い上に、その任務は多忙を極めるので、個々の信者に接する機会も遠のき、司教の父としての特徴が人々の目に薄れる事もあり得る。
しかしこれは、高位にのぼる権力者の誰にも起こる事で、やむを得ない事態である。
つまり司教であっても、弱い人間としての性は失せないからである。

聖パウロが言う通り、「我々はこの宝を土器の中に持っている」(コリント後4・7)
司教も同じように、その父性を壊れ易い土器の中に持っている。
しかし私達は、信仰をもってこれらの不完全さを超越し、父性のこの奥義に目を向けなければならない。

管轄教会の司祭職の源(もとじめ)は司教で、ある司教区に付属しないなら、何人も司祭の位にあがる事は出来ない。
全ての司祭は、必然的に司教の協力者だからである。
司祭は叙品されて一番最初のミサを、その当日、司教と共に立てる。

司祭が世話に当たる教会聖堂も、ミサを立てる祭壇も、カリスも、みな司教から聖別されたものである。
司祭が述べ伝える神のみことばも、司教の公式な教職への参与であり、司教になり代わり、司教の名によって説教するのである。
司祭が信者に対して執行する権利も、また司教の権利への参与である。

つまり教会の大河の流れは、司教の泉からほとばしる豊かな水で養われ、生命のこの奥義の一致によってこそ、教会はその力と永続性とを汲み取るのである。

このように教皇の父性も司教の父性も、ともにマリアの霊的母性の反映であり、教皇と司教に対する私達の考心は、マリアに対するまことの信心がもたらす当然な結実である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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