活躍と生活とにおけるマリアの信心

 

「神の母マリア」

L・J・スーネンス著 A・デルコル訳

NIHIL OBSTAT QUOMINUS

IMPRIMATUR

195937日 東京大司教認可

 

多くの信者は、マリアに対する信心を毎日の生活から切り離し、無関係な信心業のカテゴリーに入れている。
今日"信心"といえば、とかく弱い意味に解しがちである。
そこで、というのが、この言葉は、一般に考えられている受身の意味より、むしろ能動的な意味を持っている。
デヴォッツィオというこの語は、デヴォヴェーレ(devovere)という動詞からの転化で、自分自身を"全く奉献する"という意味である。

司祭はミサ通常文の中で、生きる人々の記念を行う時、神に向かって、「あなたが彼らの信仰と"信心"とをお知りになる」という言葉を述べるが、この場合の信心は、神の奉仕に自分を捧げるという意味に解すべきものである。

マリアに対する信心と使徒的活躍との中にある生命的な結びつきを、フランク・ダッフ(Prank Duff)ほど強調したものはない。
彼はレジオ・マリエと言われる、あのマリア的運動の提唱者である。
この運動には、超自然的なしるしが極めて明らかにあらわれている。
つまりレジオ・マリエの活躍は、その提唱者の思想を要約する次の一文の生きた解釈に過ぎない。

 

「マリアに対するまことの信心が全き発展を迎えるのは、ただマリアとの一致においてのみである。
一致というのは、同じ生活様式を営むという意味である。
さて、マリアの生活は、まず恵みを分配する事である。
マリアの生活と運命とは、全て母性――キリストの、そしてそれによって私達の――である。
霊的この母性こそ、マリアの本質的使命と生命そのものであり、もし私達がこれに参加しないなら、マリアとの全き一致を得る事は出来ない。
マリアに対するまことの信心は、必然的に人々の霊魂に対する奉仕を含んでいる。
母性のないマリア、使徒職のないキリスト信者、これこそ同程度の、また不完全なものである。
マリアにとって霊的母性は、キリスト信者にとって使徒職は、その使命と生命の実在と本質であり、もしこれを除くなら、神の御計画に反する事になる。」

 

他方、マリアと活躍とのこの親密な結びは、マリアに対する信心にとっても、また使徒的活躍にとっても、極めて有益なものであると悟らないものがあろうか?
注意しないなら、マリアに対する信心は、自分自身の中に閉じこもり、外部との連絡を絶たれた小さなお堂の中にいるように、実生活の散文から切り離された詩、宗教上の個人主義、つまり、「にせもの」のマリア信心に代る危険がある。

一方、活躍に対するあこがれは、自然的な本能に過ぎない寛大さの本能を促し、あわただしさを活躍と取り違え、キリスト教的謙遜の必要さを認めない、自然主義に流れる危険がある。
しかし超自然的な活躍において、謙遜の徳はどれほど必要なものであろう。
霊魂が謙遜であればあるほど、豊かに神の恵みを受ける。
そして人間の活躍は、心の奥底に根ざした精神的態度――謙遜な犠牲心と祈りをつちかい、深める態度――によって展開されるようになる。

使徒的活躍に具体化されるマリア信心、マリア信心に根ざした使徒的活躍、この総合は、何という自然と超自然の平均を、偉大な豊かさを、思い起こさせることだろう!
また、今世紀の最も重要な問題に対して、いかに広い展望を開くことだろう!

先に述べたようにマリアは、そのむかし、おん子イエズスに対して示された母としての配慮を、いま、イエズスの神秘的お体に対して示し続けている。
この母としての配慮は、カトリック的使徒職の全ての面に、宗教上の事業、社会的運動、慈善活動を問わず、直接あるいは間接に広がってゆく。
しかし、マリアのこの配慮が実現を見るために、私達の忠実な、寛大な協力を必要とする事を忘れてはならない。
この条件のもとにおいてのみ、マリアは普通に、活躍されるのである。

もしマリアが、私達のうちに忠実な道具を見出されるなら、マリアの母性は、霊魂におけるキリストの生命の増加にとどまらず、この増加を条件づける全ての生活様式に、また人間の全ての物質的、肉体的な必要に広がる事が出来る。

この時、文書や言葉をもって、あるいはラジオ、テレビ、映画の技術をもって、キリスト教の真理を広めようとする私達の努力のうちに、マリアも働かれる。

私達が戦う神の権利を守る戦いにおいて、私達自身よりも、むしろマリアが戦われる。
なぜならマリアは、ご自分の子供達である私達を、深く愛し、私達自身よりも私達の事を心配するからである。
マリアは、私達の勇気を支え、不足を補い、キリストの光と熱をどこまでも届かせようと努力する。
つまりマリアは、キリストのために道を開くことのみをあこがれる。
そして、私達のうちに適当な道具を見出す時、さらに容易にそれを行う事ができるのである。

人間的なものは、どんなものもマリアと無関係とはいえない。
平和の后であるマリアは、家庭における平和、国家における平和、国際的な平和の后であり、私達の個人的、社会的、民衆的な争いを和らげ、これを和解させるために働かれる。
マリアは、人間の間で行われる兄弟殺しの戦争を悲しみ、苦しんでいるからである。

偉大な布教事業のうちにも、マリアは活躍する。
それは、全ての恵みを取り次ぎ、宣教師の召し出しを促し、未信者の心の中に改心の望みを起こし、世界の果てまで福音のメッセージが届くように働く事をもってである。

教会の一致の運動においても、マリアは現存している。
つまり、キリストを信じる善意のある全ての人々の努力が、豊かな実を結び、彼らがみな聖なるカトリック教会の一致に加わる恵みを得られるように、マリアは働くのである。
別れた子供達が再び父のまことの家に立ち返り、元の一つの家族、一つの心となるように母ほど願い、望む者が他にあろうか?

キリストが迫害を受け、十字架の道行の苦しみを受けている全ての地にも、沈黙の教会が主のご受難を受けている全ての国々にも、マリアは現存している。
こうしてマリアは、自分の子供である人間の歴史の中心に常に現存し、これからも現存し続けるのである。
マリアの母性は、絶えず活躍する霊的母性であり、どこでも、いつでも、私達人間の生活の中に現存する事を望むからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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