御降誕のうちのマリアと教会

「神の母マリア」

L・J・スーネンス著 A・デルコル訳

NIHIL OBSTAT QUOMINUS

IMPRIMATUR

195937日 東京大司教認可

マリアがお告げを受けて神に承諾した時、その承諾のうちに教会も現存していた。
生まれるべきお方は、全人類のかしら、神秘的からだ、全体のかしらであり、既に述べた通りマリアは、教会を神秘的に懐胎することなしに、キリストを生理的に懐胎することはできなかった。
「全てを、唯一のかしらであるご自分のもとに集める」キリスト(エフェゾ1・10参照)の母となったマリアは、キリストをかしらとして頂く全人類の母、従って全教会の母ともなるのである。

ためにマリアにおいて、次のような逆説が実現するようにもなる。
つまりキリストの母であるという理由によって、マリアは教会の母となるが、また教会の娘ともなる。
それは、神秘的な体のかしらであるキリストが、マリアをこの体の一致に導入し、最もすぐれた肢体とするからである。

マリアと教会を二本の平行線として考えれば、マリアも教会も共に母であると言わねばならない。
しかし、これが同一の意味においてではない。
従って両者は、平行線のように交叉することはないが、互いにそれぞれの意味を持ち、しかもまことの母性を備えているという点で同一の特徴がある。

マリアの母としての立場は、地上の全ての内的母性をはるかに超越している。
往々にして私達は、感覚世界の肖像を超自然界に写し、目に見えない実在を、物質的、感覚的な実在の色褪せた引写しのように考えがちである。

これと同様で、神のみわざであるマリアの母性を、地上で見慣れた母性の遠い写しのように思い、或いは、同じ線に沿ってそれを考える。
つまり私達にとって中心となるのは、地上の物質的存在である。
しかしこの態度は、超自然的な実在が、感覚によってとらえられる物質的な実在よりも、はるかに実在的であるということを忘れる。
「同一原理(=精神的実在)」は私達の部屋の床(=物質的実在)よりも確実である」とは一哲学者の言である。

つづく

 

 

 

 

 

 

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