天の元后 憐れみの御母

「マリアに自分を捧げる人は救われる。」聖エフレム

 

「私は天の元后であり、憐れみの元后です。私は義者の喜びのみなもと、罪人が天主に入るための門戸で、この地上でどんなにのろうべき罪人でも、生きている限り私の慈悲を感じない者はありません。少なくとも悪魔の誘惑を少なくしてもらえます。悪魔の誘惑を少なくしてもうらう事は、私のとりなしの賜物なのです。」(聖ブリジッタへの啓示)

「地獄に対する戦いにおいて、いつも勝利をしめる秘訣は、絶えず「天主の御母よ、我ら御身の御保護により頼み奉る。」と繰り返しながら、天主の御母であり我らの御母であるマリアに依り頼む事である。この短い祈りを唱えてマリアにより頼んだために、地獄に対して勝利をしめた信徒がどれほどであろうか。」(聖アルフォンソ・リゴリオ)

子供が敵の剣に倒れようとしているのを見た母親は、これを救うために、あらん限りの努力を試みるに違いない。聖母マリアは、ご自身、聖ブリジッタにこのように語った後、次の様に付言された。

「私は、私の子供達みなに対し、例えどんなに罪深い者であっても、私の憐れみを祈り私の助けを求めさえすればこのようにしていますし、また今後ともこのようにするに違いないのです。」

「憐れみの御母!これは全ての人が私に与える名称です。実際、天主の人間に対する慈悲は、私を憐れみに満ちた者となさいました。ああそれにもかかわらず、私の助けを求めないものは本当に不幸です。」(聖ブリジッタへの啓示)

「もし、犯した罪をかえりみて恐れたり落胆したりする時、マリアが憐れみの元后として立てられた理由を思い起こそう。それはどんなに大きな罪人、どんなに絶望的な罪人も、マリアに依り頼むならば、その御保護によって救われるためである。」(聖アルフォンソ・リゴリオ)

聖母マリアに向かい、信心をもって交誦「元后憐れみ深き御母」の「ああ、我らの代願者よ、憐れみの御まなこもて我らをかえりみ給え」という句を唱える時、聖母マリアはこのように御自分に祈る人の祈りを聞かずにはいられないということを、聖ジェルツルダは啓示によって知った。

「私は、どんなに大なる罪人でも立ちかえるとすぐこれを迎えようと待っています。私はこの人が犯した罪ではなく、その現在の意向を考慮します。私は本当に"憐れみの元后"です。ですから喜んでその傷を治療し、癒すように努めるのです。」(聖ブリジッタへの啓示)

「契約のひつであるマリアが、天に上げられてその元后となると、人類に対する地獄の力は揺るぎかつ敗れた。」(シエナの聖ベルナルディノ)

聖母マリアは、聖ブリジッタに御自分が保護なされているものについて、「彼らの至愛なる元后であり母である私は、彼らのそばに行って臨終の苦しみを和らげ、彼らを慰めたいと思います。」と仰せられている。

「ああ、マリアよ、キリスト教徒の生命である御身が私達をお見捨てになるとすれば、私達はどうなるであろうか。救霊の希望があるであろうか。」(聖ジェルマノ)

聖ブリジッタは天国の聖人方でさえ、聖母マリアに向かって「ああ私達の元后よ、御身に栄えあれ、御身以上に力あるものがありましょうか。御身が何かを望むとすぐ聞きとどけられるのです。」と申し上げるのを聞いた。

「ドミニコ会の編年録によれば、モンペリエのレオダ修士は、日に二百回、憐れみの御母により頼む習慣があった。
さて、この修士が重病にかかった時、大変美しい女王が彼のそばに現れて彼に向かい「レオダ、あなたは死んで、御子と私のそばに来たいですか。」と尋ねた。レオダは、「あなたはどなたですか。」と尋ねた。すると女王は「私は憐れみの母です。あなたはしばしば私の助けを求めましたので、ただいまあなたを迎えにまいりました。さあ、天国へ行きましょう。」と答えた。
レオダはその日死んだ。私達は彼が、天の元后に連れられて至福者達の住み家に入ったことを信じている。」(聖アルフォンソ・リゴリオ)

「至聖童貞に仁慈はたいへん深く、慈母の愛にあふれるその御心は、一時たりとも仁慈を私達にほどこすことを止めないのである。」(修道院長ゲリック)

聖アグネスは天から降って、聖ブリジッタに「私達の元后は、栄光のうちに、その御子と一致していられる現在も、憐れみを失うことが出来ません。この憐れみは私達の元后にとって極めて自然なものなのです。
それでその憐れみを全ての人に、最も邪悪な罪人にでも、ほどこして下さるのです。マリアの優しさは天上地上の全ての物体を照らす太陽のように、全ての人に感じられますし、マリアの御助けを求めるものは、天主の御憐れみにあずかるのです。」と語りました。

「マリアの甘美なる御心よ、わが救いとなり給え!」(尊者ピオ9世教皇)

「マリアは我らの救い、生命、希望、慰め、避難所、助けである。」(尊者バスティスのベルナルディノ)

「ああ栄光の箱舟!ああ救いの議所よ!」(聖ヴィンセンシオ・フェラリオ)

「全ての選ばれた者は、マリアの手段によって永遠の救いを得るのである。」(聖アイデルフォンソ)

「マリアは海の星と呼ばれる、なぜなら、水夫達は北極星である海の星によって彼らの港に導かれるからであり、従ってまたキリスト信者達は彼らの航海において、永遠の栄光に導かれるからである。」(聖トマス・アクイナス)

「ああ楽園の代理者よ!」(聖アンドレア・アヴェリノ)

「ああ祝されたる信頼、ああ確かなる避難所よ、天主の御母なる御身はわが御母でいらっしゃいます!いかにしてわが希望を捨てることが出来ましょうか、わが救いと尊厳がわが兄なるイエズスとわが御母なるマリアの御手のうちにありし時より?」(聖アンセルモ)

「ああマリア、マリアよ、愛の火、あわれみの分配者よ!マリア、人類が為の共同なる救い手よ、御身が肉によりてみ言葉を覆われになられ時、世は贖われました。キリストは御受難をもってその償いを払われ、御身は御肉身と御霊魂の御悲しみをもって払われました。」(シエナの聖カタリナ)

<祝せられた童貞に関する聖ピオ神父の御言葉>

「幾人かの者は非常に愚かなので、彼らは人生を祝せられた御母の助けなく過ごし通すことが出来ると考えます。」

「無原罪の御宿りの中で祝せられた御母の重要性を認めることが救いの道における最初の一歩である。」

「御母を愛し奉り、ロザリオを、今日の世界の邪悪に対する武器としてのロザリオを祈りなさい。」

「天主より与えられる全ての聖寵は祝せられた童貞を通して与えられるのである。」

「祝せられた御母は全ての母親達の母である。」

「祝せられた御母は祭壇まで私に付き添い給い、聖祭を捧げ奉る間、私の傍らに留まり給うのである。」

一人の友人であった司祭が尋ねた。
「祝せられた御母はあなたに常に現れ給い、あなたは御母を見奉りますのですか?」
聖ピオ神父はこれに答えられた。「祝せられた御母は、私が御母を必要とする時は常に来て下さいます。」

「イエズスを見奉る者はまた、イエズスの御母も見奉るのである。」(聖ロベルト・ベラルマイン)

「全ての聖人は皆我らの聖母に対し、偉大な信心を持っているのである。聖寵は聖母の御手を通らずして天からはやって来ないのである。我々が家に入らんとするならば、必ず門番に話しをしなければならない。そして聖なる童貞は天国の門番である。」(アルスの聖ヴィアンネ)

「マリアは全ての人間と御自身のために救いの基(もとい)となられ給うたのである。」(聖フランシス・デ・サレス)

「我々が公教会の教えと行いより汲み出さなければならない、その結論は何であろうか。それはこうである。我々の救霊はマリアにおいて為されるに違いないのである。」(尊者カルミナーデス)

「御子は彼の御母なるマリアなしに見出す事は出来ぬのである。天主が一致させしものを分け離すのは不可能であり、更にマリアによりてマリアと共に以外にはあなたがイエズスを見出す事が出来ぬのは確かである。」(教皇聖ピオ10世)

「マリアがそこに在し給うならば、御子もそこに在し給うのである。」(十字架の聖パウロ)

「マリアは栄光に満てるとりなし手にして、力強き天主の御母である。」(教皇レオ13世)

「天主の御摂理の御旨のために、我らはマリアによりて天主なる御者を受けたのであり、我々はマリアの御手以外にキリストを受ける手段を持たぬのである。」(教皇聖ピオ10世)

「ああ天主の御母よ、御身の御名は天主の祝福と聖寵に満ちみてり。」(聖メトジオ)

「我らが何らかの香りに触るる時、我らの手は何であれ触るるものが香るのであり、我らの祈祷を祝せられた童貞マリアの御手を通すのであれば、彼女はそれに香気を与え給うのである。」(聖ヴィアンネ)

「我らの聖化はマリアへの近さ次第である。彼女はいとも天主に近く、我らが彼女にいとも近きならば、我らは彼女によりて天主御自らにいとも近いのである。」(聖マキシミリマノ・マリア・コルベ)

「イエズス・キリストに至る安全で確実な道は、マリアをおいてない」(教皇聖ピオ10世)

「天主の御子は、御母にかたどって教会を作られた。」(デリエン神父)教会認可

 

あわれみの御母よ、我らのために祈り給え。

Mater misericordiae, ora pro nobis.

 

 

 

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