3月25日
祝せられた童貞マリアは、聖大ゲルトルードに、いかなる者であれ、我らの主が御胎内に留められし、
この祭日の八日前から(祭日を迎えるノベナとして祈る)、毎日信心深く、45回の「天使祝詞」を唱えるならば、
主の御宿りから御誕生までを、その者があずかったかの如くに、その者は、御母に大いなる御世話をもって仕えた事になり、聖母は、その者がそのような状態の下になくとも、拒まれる事はなく、そうして聖母は等しく、彼らが願ったものを全て与えられる事を願われるという事を、御教えになられました。
聖女は、この信心の中での「天使祝詞」の唱え方を教えられました。
「めでたし」は、御苦しみを慰める望みをもって、
「聖寵満ちみてるマリア」は、聖寵を持たざる者への聖寵を願って、
「主、御身と共に在します」は、罪人への祈りとして、
「御身は女のうちにて祝せられ」は、相応しく生まれようとする者への聖寵を願って、
「御胎内の御子イエズスも祝せられ給う」は、この選ばれし御者の完徳に対して祈ります。
そして、各「天使祝詞」のしめくくりに、次の言葉を唱えます。
「イエズス、御父の栄光の輝きにして」を、遍く知らしめる願いを持って唱え、
「彼の御本質のかたどりよ」を、天主の御愛を得るために唱えます。
聖大ゲルトルードは、祝せられた童貞マリアか、なにがしかの聖人への賛美を読む、あるいは耳にした時は、愛のために、甘美にして相応しくして、全くそれらをその聖人に帰し奉る奉る習慣があり、天主に心を挙げ、いつもの時よりも一層、それによって動かされました。それによって、記念し、光栄を帰し奉るその聖人よりもなお、主の事を教えられました。
聖女がある御告げの祭日の説教を拝聴していた時、童貞マリアについて排他的に語られ、御子の御受肉について言及されなかったので、説教より戻り、聖母の祭壇を通り過ぎて、聖女は大変悲しみ、通常の信心をもって聖母に御礼を為さず、代わりに、聖母の御胎内に宿られしイエズスに御礼を為しました。
しかしその後、聖女は、この崇むべき元后を喜ばせなかったとして、懸念を抱いてから、我らの主は、このような愛ある言葉で、聖女を慰められました。
「わが愛するゲルトルードよ、恐れるな。
あなたが私だけに光栄と賛美を帰し、わが愛する御母に通常のものを捧げても、彼女に対する快さは減じないであろう。」