スカプラリオ関連の話題

スカプラリオは聖母御自身によって与えられた天国から与えられた尊き贈り物です。
「信心深く忍耐強くそれを身につけなさい」と御母は全ての霊魂に言われます。
「それは私の衣服です。
それを着けていることはあなたが絶えず私のことを考え、また私もいつもあなたのことを考え、あなたが永遠の生命を保つようあなたを助けることを意味します。」

<悪魔からの保護と改宗>

尊者フランシス・エペスの体験は、スカプラリオを身につけることを促す人々に対しなぜ悪魔が働きかけようするのかを私達に理解させます。
ある日、尊者フランシスのスカプラリオが落ちました。彼は拾い上げ元通りに戻すと、悪魔が大声をあげました。
「我々から多くの霊魂を奪い取るその習慣を取り除け!」
そうしてその場においてフランシスは悪魔が3つのものを非常に恐れているということを認めさせました。
一つは「イエズスの聖名」、もう一つは「マリアの聖名」、そして「カルメルのスカプラリオ」でした。
私達はこれらに「聖なるロザリオの信心」を加える事も出来るでしょう。

偉大な聖ペトロ・クレヴァーは毎月1000人の奴隷がコロンビアに船で送られて来る中で、彼の改宗者達への救霊の保証として用いました。
最初に彼は宣教団を組織して洗礼を施し、その後スカプラリオを着用されるのを見ました。
数人の司祭はこの聖人を非難しましたが、聖ペトロはマリアが彼らを見守って下さる事を確信しており、聖人は更に30万人を改宗させました。

<戦場における保護>

第二次世界大戦中にカルメルのスカプラリオを着用していたことによって奇跡的に助けられた人物として、ロードアイランド島のシスト・モスコ氏がいます。
氏は硫黄島と沖縄にて日本の艦隊と戦いました。
モスコ氏公教会の教えの中で育ち、常にカルメルのスカプラリオを着用していました。
氏の船にはダイナマイトが搭載されていましたが、その時自爆するための特攻機が船のデッキを襲いました。
爆風はボルトで閉じられた鉄鋼のドアも開きました。
他の人は死亡、もしくは押し潰されて重傷を負いましたが、モスコ氏だけは無傷でした。
「私ただ一人が無傷であったのは、私がスカプラリオを着用していたためであると考えます。」

「私自身カルメル山の聖母のスカプラリオに対して深い信心を持っていることを皆に知らせて頂きたい…スカプラリオを是非広めて頂きたい。」(教皇ピオ12世)

「ロザリオとカルメル山の聖母のスカプラリオとは、切り離しては考えられません。」(ファティマのルチア童貞)

<海の荒波からの保護>

1845年の夏の終わりの、あるイギリス船でのことです。
「大洋の王」はちょうどハリケーンの真っ只中にありました。
大風と荒波は船に激しく容赦なく打ちつけ、プロテスタントの牧師は妻と子と他の乗客達と共に、御あわれみと赦しを祈るために苦労してデッキに進みました。
乗員の中にはジョン・マッコリフというアイルランド人の若者がいました。
彼はこの差し迫った状況を見て、自身のシャツを開き、スカプラリオを取り十字架のしるしをすると荒波の中にそれを投げました。
そしてまさにその瞬間、風が鎮まりました。
しかしただ一つの波だけがデッキを洗いました。その波は少年の足元にスカプラリオを戻しました。
フィッシャーという名の大臣はこの光景をすべて見ていましたが、若者に質問した際に聖なる童貞と彼女のスカプラリオについて教えられました。
フィッシャー氏と家族は感動し、それから速やかに公教会に入り、聖母のスカプラリオの御保護を喜びました。

「誰でもスカプラリオを身に着けて死ぬ人は、永遠の火を受けないでしょう。」1251年7月16日の聖母マリアの聖シモン・ストックへの御約束。

<臨終における改宗の聖寵>

スカプラリオを着用し、毎日一つの天使祝詞を唱えた人に改宗の聖寵が与えられた話です。
ある老人はニューヨークの病院に運ばれました。彼は意識不明で死にかけていました。
看護婦は彼がスカプラリオを着用しているのを見て、聖職者に電話をしました。
この老人のために祈りが捧げられる中で彼は意識を回復し、話しをしました。
「神父様、私はカトリック教徒ではありません。」
「ではなぜあなたはスカプラリオを着用されているのです?」
「私はこれを着用すると友人に約束しました。そして一日に一つの天使祝詞を唱えます。」
神父は彼に言いました。
「あなたは死が近づいています。あなたは公教会信徒になりたいと思いますか?」
「一生、私はなりたかったのです。」
彼は洗礼を施され、最終の秘跡を受け、平和のうちに息を引き取りました。
聖母マリアはスカプラリオによって、御自身のマントの下にもう一つの霊魂を導かれました。

<火災からの保護>

1957年5月にカルメル会の司祭は、カルメルのスカプラリオが大火災から家をどのように救ったか、という珍しい話を公表しました。
その大火災とはドイツのウェストボデンの家並み全体に火がつき起こりました。
二世帯住宅に住む敬虔な住人は直ちに家の主要なドアにカルメルのスカプラリオをかけました。
火の粉はこの家の上を飛びましたが、この家は無事でした。
5時間以内に22もの家屋が灰となりましたが、大火災の中で損害を受けなかったものの一つがその家でした。
聖母マリアが救われた場所を見るために、その後何百人もの人がその家を訪れました。

いつもスカプラリオを着用することは、聖母マリアの絶え間ない助けを沈黙のうちに願う事になります。
また世界中のカルメル会の祈願及び善業を共有する事にもなります。
教皇ピオ12世聖下はスカプラリオについてしばしば語り、聖母の聖シモン・ストックへの御出現の700周年記念においてこれを「マリアの汚れなき御心への奉献のしるし」と御呼びなさいました。

<爆発からの保護>

グアテマラのイエズス会宣教師の伝えられたものです。
1955年11月に、27人の乗客を乗せた飛行機が墜落しました。
1人の若い女性を除いて他の乗客は死亡しました。
女性は機体が落下しつつあるのを見て、スカプラリオを掴み、助けのためにマリアに呼びかけました。
墜落後、彼女の衣類は灰となりやけどを負いましたが、炎は彼女に接触しませんでした。

また同年同様の奇跡が米国中西部で起こりました。
一人の少年が自転車のタイヤに空気を入れるために、ガソリンスタンドに立ち寄りました。
その瞬間爆発が起こり、少年の衣類は燃えてしまいました。
しかしスカプラリオは炎の影響を受けさせませんでした。
今日彼は当時受けた傷跡を少し残していますが、命の危険にさらされた際の聖母マリアの御保護を思い出す特別の理由があります。

<救霊>

聖母が聖シモン・ストックにスカプラリオを授けられたまさにその日、聖人はリントンの君主ピーターに呼ばれました。
「神父様、早く来て下さい。私の兄が絶望のうちに死につつありますから!」
聖人は直ちにこの臨終にある人の枕下に向かいました。
到着に際し、聖母が御自分の御約束を御守り下さるように願い、彼の上に大きなスカプラリオを置きました。
するとすぐに彼は悔い改め、天主の聖寵と友情のうちに息絶えました。
その晩彼は弟に現われ、「私はいとも力強き元后と人を守り給う習慣によって救われました。」と言いました。

<聖人とスカプラリオ>

聖アルフォンソは述べています。
「現代の異端者らはスカプラリオの着用者に対して嘲笑し、彼らはこれをくだらない、無意味なものとしてけなすのである。」

聖アルフォンソと聖ドン・ボスコは聖母マリアに対し特別な信心を持ち、カルメル山のスカプラリオを着用していました。
彼らが帰天した際、各自の司祭の上衣とスカプラリオも共に埋葬されました。
長い年月の後、彼らの墓が開かれました。
身体と上衣は腐敗したちりとなっていましたが、スカプラリオだけは完全な形で保たれていました。
聖アルフォンソのスカプラリオはローマの修道院の展覧品のなかに置かれています。

<ある宣教師の例>

1944年のある日、聖地のカルメル会の宣教師は最終の秘跡を授けるために捕虜収容所に呼ばれました。
途中の道路は泥のぬかるみだらけで危ないもので、バスの運転手は収容所から約7q前の場所で宣教師をバスから降ろしました。
そこから約3kmを歩いた後、彼の足はますます深くぬかるみにはまり込んでしまいました。
強い足場を築こうとしましたが、彼は泥の池の中に滑り落ちてしまいました。
彼は死の危険に陥り、聖なるカルメル山に向かい着用していた大きなスカプラリオに接吻し「カルメルの聖母よ、我を救い給え!」と叫びました。
次の瞬間、宣教師は固い地面の上にいました。
「私は聖母の茶色のスカプラリオによって救われたことを知っています。
私は靴を泥の中で失い、また私は泥で覆われていましたが、マリアを賛美するために残りの約3kmを歩きました。」

<ある司祭の保護>

巡礼に行ったフランスの司祭は、聖祭挙行中に自分のスカプラリオを忘れたことを思い出しました。
司祭は自分がスカプラリオを取りに戻れば遅れることを知っていましたが、スカプラリオのない祭壇で聖祭を捧げることはとても考えることが出来ませんでした。

その後この司祭が聖なる犠牲を捧げている最中に、一人の若者が祭壇に近づいて銃を引き抜き、後部から司祭を撃ちました。
全く驚く事に司祭はあたかも何事もなかったかのように祈りを続けました。
その後の調査で弾丸は茶色のスカプラリオにつき、スカプラリオが強固に弾丸を拒絶したことがわかりました。

<スペイン内乱における例>

1930年代のスペイン内乱の間、七人の共産党員が彼らの犯した犯罪のために死刑を宣告されました。
カルメル修道会の一人の司祭がその七人に死の準備をさせようとしましたが、彼らは拒絶しました。
最後の手段として、司祭はタバコや食べ物やワインを持って行き、宗教について語らぬ事を彼らに保証しました。
短いの時間の間で彼らは完全に打ち解け、その中で司祭は彼らに一つの小さな頼み事をしました。
「私があなた方一人ずつにスカプラリオを置く事を許してもらえますか?」
六人が同意し、一人が拒否しました。そしてスカプラリオを着用した全員がすぐに告解に進みました。
拒否した七番目の者は、ただ他の者達を喜ばせるために着用し、それ以上の注意を払いませんでした。

朝が来て処刑の時間が近づき、七番目の者はスカプラリオを着用はしても、天主の敵に死を賭す決心を明らかにしました。

最後の号令が伝えられ、銃殺執行隊はその仕事を行いました。七つの遺体が散らばりました。

驚く事に、スカプラリオが遺体の約50の肉片に見出されました。
六人の男はマリアの霊的肩衣と共に死に、一人の男はそれなしに死にました。

<福者クラウドの伝える話し>

福者クラウドは失われたスカプラリオの神秘の回答を与えます。
「あなたは尋ねる。『もし私が自らの罪のうちに死するを望むならば、どうであろうか?』
私は答える。
『あなたはあなたの罪のうちに死ぬが、あなたはスカプラリオのうちには死なぬのである。』」

福者はそれまで三回投身自殺を試みた男について語ります。
彼は彼の意に反して救助されました。彼はそれがスカプラリオを着用しているためである事を悟りました。
彼は自身の首よりスカプラリオを取り外し、水中に身を投げました。
マリアの御保護の肩衣なくして望みを遂げ、彼は死にました。

 

「あなたがわが衣を着用する時、私はあなたをカルメルの家族に導くのです。」(聖母より聖バルトロメオの福者アンへ)

<フランスの火災における奇跡>

1656年に、フランスにおいて奇跡が起こりました。
宣教師らがそれを有名なルジューヌ神父に関連付け、それが記録されました。

彼らの証言では、十時を回ったある晩に、家が炎の中にあるとわかりました。
刻々新たに燃えるものが激しい炎の中に加わり、一人の宣教師はこれに似た、20年前のペリクエックスの激しい火災が、スカプラリオを投下された時に炎が抑えられた事を思い出しました。

そして宣教師はカルメル山の聖母に御助けをこいねがう事を決め、聖母にその信頼と信心とを認められているであろう一人の少年に呼びかけました。

「あなたのスカプラリオを火に投じて下さい。
我々は彼女の衣によって表される聖母の御力によって、火が消えるのを目の当たりにするでしょう。」

その少年は宣教師の言葉に安心を感じ、すぐに急いで行き、道をあけるために分かれた群集の中をかきわけて、大声で言いました。

「祝せられた童貞に祈って下さい。私は火を消すつもりです。」

急速に燃え上がっている大きな炎の近くを走り、少年は自分のスカプラリオを炎の中に投じました。
その瞬間、群集の全員は炎が巨大な火鉢の旋風の如くに上昇するのを見ました。
そしてゆっくりと、ゆっくりと最後に火が消えるようにして、下がっていきました。
その翌日、煙の刺激臭が付着したものの、スカプラリオは全く損なわれなかった事がわかりました。

同様の奇跡は1789年にも起こり、その後正式に文書化されて、認可されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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